低いチューニングの曲より、昔の高い曲のほうが自分には合っている。
二井原実(LOUDNESS)は、2010年の取材でそんな実感を語っています。
20歳頃の曲を50歳近くで歌い直し、しんどさとともに、自分の声の良さを再確認していました。
そこへ至るまでには、海外での録音、声が出なくなった時期、発声の学び直しがありました。
若い頃に見つけたハイトーンを、どのように歌い続けてきたのでしょうか。
「CRAZY NIGHT」公式配信音源(編集盤『Early Singles』収録/曲のシングル初出は1984年)。
ゲディ・リーの歌をまねて、高い声で歌えることに気付く
二井原は、初めからヘヴィメタル一筋だったわけではありません。
学生時代にはソウルを歌う大編成のバンドにも参加し、そちらへ進もうと考えていた頃に、LOUDNESSのオーディションの話が来たと振り返っています。
一方で、自分の歌い方を作った存在として挙げているのが、ラッシュのゲディ・リーです。
ベースを弾きながら歌っていた二井原は、その高い歌をまねてみる中で、自分にも歌えることに気付いたと話しています。
ソウルを歌っていた経験と、ハードロックの高音に触れた経験が、LOUDNESS以前の彼にはありました。
そのソウルバンドでは、十数人の編成に4人のボーカルがいたそうです。
タワー・オブ・パワーやオーティス・レディングを歌っていた学生が、ゲディの高音にも自分の可能性を見つけ、LOUDNESSの歌手へ進んでいきました。
ハイトーンは、さまざまな歌を試していた中で見いだした、自分に使える表現だったのです。
1981年には、樋口宗孝、高崎晃、山下昌良とLOUDNESSを結成し、『THE BIRTHDAY EVE〜誕生前夜〜』を発表します。
歌手としての持ち味を、バンドの音の中へ置いていく出発点になりました。
「LOUDNESS」公式配信音源(1981年『THE BIRTHDAY EVE〜誕生前夜〜』収録)。
1985年の世界進出から、1987年の『HURRICANE EYES』へ
1984年末にシングルで発表された「CRAZY NIGHT」は、翌1985年の『THUNDER IN THE EAST』にも収められました。
このアルバムを通じて、LOUDNESSはアメリカでも活動を広げていきます。
二井原の歌も、海外の制作陣と録音する中で、求められるものが変わっていきました。
本人は2019年の取材で、発音や音程の正確さに加え、1987年の『HURRICANE EYES』では、エディ・クレイマーとさらに良い歌を探してテイクを重ねたと振り返っています。
二井原の回顧では、それ以前のマックス・ノーマンとの録音は、出来上がった歌詞を正確に歌う意識が強いものでした。
エディとの録音では、いったん良いとされた歌でも、もっと良くなるかもしれないと歌い直しています。
さらに現地の歌手も助言し、シャウトで聞き取りにくくなる英語を、同じ意味の別の言葉へ変えることもあったそうです。
歌い手の声に合わせて、歌詞まで動かしながら完成形を探していました。
「THIS LONELY HEART」公式配信音源(1987年『HURRICANE EYES』収録曲の2009年デジタルリマスター版)。
正確さを整えることから、声の表情を探すことへ。
録音で歌を作る経験も、その後の二井原の歩みにつながっていきます。
声が出なくなった時期を経て、2000年の復帰から基礎を見直す
LOUDNESSを1988年に離れた二井原は、その後、別のバンドやセッションなどでも活動しました。
しかし、その期間には歌えなくなるほど声に悩んだ時期もあったと、本人が話しています。

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2026年の取材では、1990年代の声の不調を振り返り、2000年の再結成を機に、指導者から発声を学んだと説明しました。
2010年の時点でも、声が出なくなったことをきっかけに基本を見直し、約10年間、発声練習を日課にしてきたと語っています。
その2010年には、以前より高い音も低い音も使えるようになり、歌い続ける体力も付いたと感じていました。
持っている声だけを頼りにする段階から、その声を日々整えて歌う段階へと進んでいたのです。
復帰後には、ステージでの聴き方も変わりました。
本人は、大きな楽器の音の中では自分の声をつかみにくかったものの、イヤーモニターを使うことで歌いやすくなったと話しています。
2014年の取材によれば、最初は既製のイヤーモニターを使い、2001年に耳型に合わせた専用品を作りました。
既製品では、歌って口を動かしたり汗をかいたりするとずれ、途中から従来のステージ用スピーカーで聴くこともあったそうです。
専用品へ移ってからも、声と楽器のバランスをつかみ、歌うことに慣れるまで約1年かかったといいます。
機材を替えることに続いて、自分に合う聴こえ方を覚える時間も必要でした。
発声を学び直すことと、自分の声が聴ける環境を作ることの両方が、再び歌う時間を支えていました。
2010年の再確認――昔の高い曲に、自分の良さがある
2010年に『KING OF PAIN 因果応報』を発表した頃、二井原は、初期の曲を集めた公演にも取り組んでいました。
そこで改めて感じたのは、1980年代の曲が自分の歌の声域に合うということです。
『CLASSIC LOUDNESS』と題した公演では、20年以上歌っていなかった曲にも向き合いました。
20歳頃に作った曲を50歳近くで歌っても、本人には大きな違和感がなかったそうです。
特定の時期に絞って歌うことで、日頃のセットリストでは見えにくかった、昔の曲との相性を確かめることができました。
『CLASSIC LOUDNESS LIVE 2009』公式ダイジェスト映像(2009年公演、DVDは2010年発売)。
当時の取材では、近年の低いチューニングを使った重い曲より、昔の曲のほうが歌いやすいと説明しています。
高音が楽になったと単純に語っているわけではなく、しんどさはありながら、自分の良さもそこにあると考えていました。
低いチューニングの曲が、本人にとって必ず歌いやすいとは限らなかったのです。
二井原の話は、自分の声が生きる高さを、長い活動の中で確かめ直してきた例でもあります。
同年の『KING OF PAIN』は、レギュラー・チューニングを主体にした作品でした。
初期の曲を振り返る活動と、新しい曲で歌う活動が並行し、その両方で声の持ち味を生かしていました。
ただし、練習を続けて状態が良くなっても、何日も連続で公演が続けば、出るはずの声が出なくなることはあるとも話しています。
高音の感触が戻ったという本人の実感と、移動を重ねて歌うツアーの難しさは、同時に存在していました。
2019年の本人は、声の太さの変化を感じても、昔の曲を同じキーで歌えると話していました。
『SUNBURST〜我武者羅』では、高崎晃が思い描いた歌へ取り組む

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2021年12月には、2枚組の『SUNBURST〜我武者羅』が日本で発売されました。
この作品では、高崎晃が描いた歌の形に、二井原が近づいていく制作が行われています。
二井原は2026年の取材で、普段は自分で作ることの多い歌のメロディも、この作品では高崎の考えを受け取って歌ったと説明しました。
高崎が歌や叫び声で示した録音を聴き込み、練習して臨んだそうです。
「OEOEO」公式ミュージックビデオ(日本では2021年発売の『SUNBURST〜我武者羅』収録/映像公開は2022年)。
この変化は、日本語詞を中心にした作品作りとも関わっています。
山下昌良は2022年の取材で、それまで二井原が日本語で書いてから英語に直すことが多かった歌詞について、今回は高崎の日本語が曲によく合ったと説明しました。
全16曲のうち、1曲がインストゥルメンタル、2曲が英語で、そのほかは日本語です。
歌のメロディに加え、言葉の組み立ても、高崎の発想を受け止める作品になっていました。
また山下によれば、海外ツアーの延期で制作時間を取れたため、何回かに分けて録音し、納得するまでやり直せたそうです。
長年の仲間の曲であっても、普段と違う歌を練習し、録音で確かめる余地がありました。
二井原はこの制作を、自分の発想だけで歌を作るときとは違う、手応えのある挑戦として振り返っています。
その2026年の取材でも、日々の声の練習を続けていることを話しました。
若い頃に高い声で歌えることを知り、録音で表情を広げ、歌えない時期を経て基礎を学び直す。
さらに、声に合う曲の高さを確かめ、作曲者が求める歌にも取り組む。
二井原実のハイトーンには、その長い選択と準備の積み重ねがあります。
声の使い分けや、自分の声を聴く環境については、二井原実の歌い方で詳しく扱っています。

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