シーナさんの歌声は、一直線に強くなったわけではありません。
歌唱経験のないまま録音へ入り、1970年代末には高く甘い声でロックとポップスの境界を飛び越えました。
その後、爆音のライブを重ねる中で声はざらつき、喉の問題と大きな体調の危機を経験します。
それでも2014年の新作では、若い頃とは別の艶を持つ声で戻ってきました。
変わらなかったのは、正しい声を保存することより、その日の自分で曲を生かす姿勢です。
初めてマイクを握った時から最後の録音まで、声質の変化がどのようにシーナさんの表現へ組み込まれたのかを追います。
1978年、歌手ではなかった人が録音を奪った
シーナさんは、音楽学校やバンド活動を経てデビューした人ではありません。
鮎川誠さんと長く音楽を語り、サンハウスの制作をそばで見ていましたが、自分が歌手になる予定はなかったといいます。
転機は、鮎川さんの新しい録音現場でした。
先に歌っていた人の息継ぎを見て「ロックと違う」と感じ、自分のほうが歌えると口にする。やがて相手からマイクを渡され、そのまま録音の中心へ入りました。
技術を習ってから個性を作ったのではなく、曲への反応が先にあり、技術は後からついてきたのです。
この順番は、最後までシーナさんの歌から消えませんでした。
1979〜1980年、高く甘い声がロックをポップスの中心へ運んだ
1978年、シーナ&ロケッツは「涙のハイウェイ」でデビューします。
翌1979年、細野晴臣さんのプロデュースによる『真空パック』を発表し、「ユー・メイ・ドリーム」が広く知られました。
この頃のシーナさんの声は、後年より細く高く、鼻へ軽く集まる甘さがあります。
しかし、歌い方はおとなしくありません。語尾を跳ね、フレーズを会話のように動かし、演奏が強くなるとそのまま叫びへ進みます。

ポップなメロディーを歌っても、バンドの危うさが消えない。
女性ボーカルを飾りとして置くのではなく、本人の性格がバンド全体の速度を決めていました。
1980年代、世界を回るほど声は「きれい」より強い存在になった
1980年代、シーナ&ロケッツは国内外で活動し、作品とライブを重ねました。
電子音を取り入れた時期も、古いブルースやロックンロールへ戻る時も、シーナさんは一つの歌唱法へ自分を固定しませんでした。
明るい曲では若い頃の甘さを残し、荒い曲では母音を大きく開いてシャウトする。
楽曲に合わせて別人を演じるのではなく、どの曲にも同じ笑顔と反応の速さを持ち込みました。
一方で、ライブの音圧を越えて歌い続けることは喉への負担にもなりました。
1988年頃から声の状態は徐々に厳しくなったと、鮎川さんは後に振り返っています。
若い高音をそのまま保存できなくなった時、シーナさんは歌うことを小さくしませんでした。
ここから声は、透明さよりざらつき、軽さより言葉の重みを帯びていきます。
1990年代、「変わってしまった声」を新しい歌い方へ変えた
1990年代には、喉のダメージがさらに深刻になりました。
周囲から声質を悪く言われることもありましたが、シーナさんは歌をやめませんでした。
1993年には阿久悠さんの詞を歌う作品へ取り組みます。
若い頃のかわいさだけでは運べない言葉を、低くざらついた声、強い子音、ブルースのような粘りで受け止めました。
この時期を「声が衰えた」の一言で片づけると、変遷の半分を見失います。
声帯の負担は現実の問題でしたが、表現は単純に狭くなったわけではありません。甘い声の中にあった茶目っ気が、年齢とともに艶や凄みに変わりました。
発声そのものの特徴は、シーナさんの歌い方・発声分析でも詳しく整理しています。
後年のハスキーさだけでなく、初期から続く息継ぎとフレーズの運び方を見ると、同じ人物の歌だと分かります。
2000〜2008年、止められても歌い、ついに身体が止まった
2000年頃には、医師から歌を止められるほど喉の状態が悪化しました。
それでもシーナさんは、音の出し方を変えながらステージへ立ち続けます。
ただし、これは無理をすれば夢がかなうという話ではありません。
2008年、結成30周年の公演を終えて楽屋へ戻ったシーナさんは、呼吸ができなくなる大きな危機に見舞われました。
その後、歌い続けるための治療を選び、ステージへ戻ります。
若い頃の声へ戻すためではなく、これからも歌える身体を得るための決断でした。
この出来事を境に、歌声の価値は「昔と同じ高音が出るか」からさらに離れていきます。
一度止まった呼吸を知った人が、もう一度フレーズの最後まで言葉を運ぶ。その事実が、歌の説得力になりました。
2014年、声は艶を増し、最後まで新作の声だった
2014年、シーナ&ロケッツは6年ぶりのオリジナルアルバム『ROKKET RIDE』を発表しました。
当時の取材では、以前より歌声が艶やかになったことが話題になっています。
若い頃の細い甘さを再現したのではありません。
長い活動で増したざらつきを残しながら、息の流れと言葉の置き方に余裕が生まれ、強い声も柔らかい声も一つの人物から出るようになりました。

同年4月10日、シーナさんは後に遺作集へ収められる7曲を録音しました。
9月には日比谷野外大音楽堂の35周年公演に立ち、さらに年末までステージを続けます。
2015年2月14日、シーナさんは亡くなりました。
最後の時期まで歌っていたのは、過去の代表曲だけではありません。新しい曲を録音し、現在のバンドとして観客の前へ出ていました。
シーナの歌唱変遷は、声を守る歴史ではなく、変化を歌へ戻す歴史だった
1978年、シーナさんは歌唱経験のないまま録音へ入りました。
1979年から1980年にかけて、高く甘い声とロックの勢いを同時に鳴らし、バンドを広く知られる存在にします。
1980年代のライブを経て声は変わり、1990年代には喉の問題が深刻になりました。
それでも変化を隠さず、ざらつきをブルースの艶や言葉の強さへ変えます。
2008年の危機を越え、2014年には新作を録音し、35周年のステージへ立ちました。
若い声を失わないことがゴールだったのではありません。変わった声を、そのたびに今日の歌へ戻したのです。
シーナさんの声は、同じ音色のまま残ったから忘れられないのではありません。
甘さも荒さも、危機の後の艶も、全部が本人の時間として聞こえる。その変化を隠さなかったことが、歌を最後まで新しくしました。
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