市川由紀乃の歌い方・発声|強い高音が柔らかく届く「酔わない歌」

市川由紀乃の歌い方と発声を解説する記事のアイキャッチ シンガー

市川由紀乃さんの歌は、声を強く張る場面でも、聴いている側まで力ませません。
輪郭のはっきりした高音、言葉が埋もれない明るい響き、静かな部分での語りかけるような声。
けれども、その心地よさを支えているのは、単純な声量や音域の広さだけではありません。

市川さんが長く教わってきたのは、歌い手が気持ちよくなるために伸ばしすぎず、曲の中で決めた場所へきちんと着地することでした。
どれほど感情的な歌でもリズムを崩さず、自分ではなく聴き手を酔わせる。
この一見冷静な考え方が、市川由紀乃さんの情熱的な歌唱を、押しつけがましくないものにしています。

市川由紀乃の高音は、声量より「着地の正確さ」で強く聞こえる

演歌の見せ場では、一つの音を長く伸ばしたり、語尾を遅らせたりすると、感情が深くなったように感じることがあります。
ところが市川さんの指導では、歌い手だけが気持ちよくなって、聴き手には重たく聞こえる伸ばし方を厳しく避けてきました。

大きく歌う場所があっても、その途中には細かな拍があります。
最後の音へ入る位置を遅らせず、決めた場所へ声を置くから、伴奏と歌が一緒に前へ進みます。
高音を長く見せびらかすのではなく、曲の流れの中で一番効果のある長さに収めるのです。

本人が教えを表した言葉が、「自分に酔う歌を歌うな」でした。
感情を薄くするという意味ではありません。
歌い手の感情をそのまま噴き出すのではなく、聴き手が物語の中へ入れる形に整えて渡すということです。

この考え方を知ると、市川さんの高音が柔らかく届く理由も見えます。
大声で押し切らず、歌詞とリズムの行き先を失わないため、声を張っても緊張感だけが残りません。

最初の一音に一時間かけた経験が、言葉の輪郭を作った

市川さんは17歳でデビューしましたが、芸名を授けた市川昭介さんから本格的な指導を受けたのは、それから7年後でした。
最初に取り組んだ「海峡氷雨」では、歌い出しの「あ」という一音だけで約一時間進めなかったと振り返っています。

一文字をきれいに発音するためのレッスン、と片づけると本質を見失います。
日本語の「あ」は同じ文字でも、明るさ、息の混ざり方、音の立ち上がりで印象が変わります。
曲の主人公が最初にどんな顔で話し始めるのかを、一音の段階から決める訓練だったのでしょう。

市川さんの歌では、声が大きくなっても言葉の形が消えにくいと評されています。
その土台には、声量を上げる前に、一つの母音が曲に合っているかを見逃さない厳しさがあります。

花わずらいを発表した時期の市川由紀乃

「花わずらい」は、白黒をつけない感情を声にした

2023年の「花わずらい」は、市川さんが制作段階から希望を伝えて生まれた曲です。
サビから始まる構成、現代的な言葉、和装に洋の要素を加えた見せ方まで、従来の王道演歌から少しだけ外へ出ました。

この曲で難しかったのは、単に激しく歌うことではありません。
主人公は相手を強く拒むわけでも、すがるわけでもない。
「嫌」と言い切る言葉にも、まだ残っている思いをにじませる必要がありました。

怒りなら強い声、悲しみなら弱い声と一対一で決めると、この曖昧さは消えてしまいます。
市川さんは、言葉の意味をはっきり発音しながら、声の表情では結論を急がないという二つの役割を重ねました。

これは「自分に酔わない歌」の発展形です。
歌い手が感情を決め切ってしまわず、聴き手が自分の経験を重ねられる余白を残しています。

録音は歌だけで始まらず、伴奏を動かす声から始まる

市川さんは、本番の歌を録る前に行われる伴奏の収録でも、歌い方をある程度固めて臨みます。
その場の演奏家は仮歌を聴きながら、どこで強く弾き、どこで余白を作るかを決めるからです。

「本番ではないから」と軽く歌えば、伴奏もその温度を受け取ってしまいます。
逆に、歌が先に物語の方向を示せば、楽器がそれに応えます。
完成した伴奏へ後から感情を乗せるのではなく、最初の歌声で曲全体の呼吸を作っているのです。

ここには、市川さんの歌が一人芝居にならない理由もあります。
歌う本人が好きなだけ間を伸ばせば、演奏家が作った流れと聴き手の呼吸は置き去りになります。
先に物語を共有し、そのうえで決めた拍へ戻るから、自由に揺れているように見える表現にも共演者との共通の足場があります。

感情を込めることと、曲の設計を守ることは反対ではありません。
設計があるからこそ、声を張る一瞬と静かに語る一瞬の差が大きくなり、聴き手は迷わず物語を追えます。

この方法は、ビブラートやこぶしだけを取り出して説明するより、市川さんらしさをよく表しています。
歌の技法は自分を目立たせる装飾ではなく、共演者と聴き手を同じ物語へ連れていく合図になっています。

病気から戻った声は、強さを失わず「優しくなった」

2024年に卵巣がんが見つかり、手術と抗がん剤治療を受けた後、歌声はすぐには元へ戻りませんでした。
開腹手術後は腹部へ力を入れにくく、高音も長く伸ばす声も思うように出なかったと本人は話しています。

発声練習を重ねて復帰すると、指導者からは以前より声が優しくなったと言われました。
これは迫力が減った、弱くなったという話ではありません。
声を出せる日が当然ではないと知ったことで、一音を聴き手へ渡す感覚が変わったのです。

最新曲「ちりぬるを」では、古風で凛とした女性を演じながら、強さだけで人物を決めていません。
すがらず、媚びず、それでも心は揺れている。
病気の前から磨いてきた「白黒をつけない歌」に、現在の柔らかさが重なっています。

ちりぬるをを歌う現在の市川由紀乃

三曲を比べると、市川由紀乃の歌い方が立体的に見える

市川さんの歌唱を知るなら、まず「心かさねて」で、長いフレーズが伴奏の流れから遅れずに着地する場面を確認してみてください。
次に「花わずらい」で、強い言葉の中へ割り切れない感情を残す方法を見ます。
最後に「ちりぬるを」で、復帰後の柔らかさと凛とした役柄が同居する現在地を比べます。

表面だけをまねるなら、こぶしを増やしたり、高音を大きくしたりしたくなるかもしれません。
しかし、市川さんから参考にできるのは、声を派手にする前に「どこへ着地するか」「誰を気持ちよくする歌か」を決める考え方です。

一方、張りのある高音を同じ声量で再現しようとする必要はありません。
現在の声は長年の指導と復帰後の再訓練によるものです。
痛み、強いかすれ、話し声の異常が出る歌い方を、演歌らしい迫力と取り違えないでください。

市川由紀乃さんの歌声の変遷では、17歳のデビューから二度の休止を越えた現在までを年代順にたどっています。
坂本冬美さんの歌い方と比べると、強い声を見せながら歌手自身を前へ出しすぎない、二人の異なる方法も見えてきます。

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まとめ|市川由紀乃の発声は、熱を冷静に届けるためにある

市川由紀乃さんの歌声には、輪郭のある高音と、張っても聴き手を緊張させない柔らかさがあります。
その両立を支えるのは、リズムを崩さず、フレーズを決めた場所へ着地させる厳密さです。

一音に一時間かけた初期の指導、「花わずらい」で描いた割り切れない感情、伴奏の演奏家まで動かす仮歌、そして闘病後に加わった優しさ。
すべてに共通するのは、自分が上手く歌ったと感じることをゴールにしない姿勢です。

市川さんの高音は、感情をそのままぶつける声ではありません。
熱を失わず、聴き手が受け取れる形へ整えた声だからこそ、強くても柔らかく届きます。

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