森山良子の「さとうきび畑」は、きれいな高音を聴いて終わる歌ではありません。
風に揺れる畑の向こうに、戦争で父を失った子どもの思いがある。
声に耳を引かれて聴き始めた人も、やがて歌の中で何が起きたのかを考えることになります。
一方、森山には、昔の恋人との再会を歌い、客席を笑わせる曲もあります。
悲しみを歌うときも、可笑しさを歌うときも、声の美しさだけが目的ではないのです。
その声で人物の気持ちを伝え、聴く人を物語へ引き込む。
そこに、森山良子の歌い方のおもしろさがあります。
「さとうきび畑」は、風の音だけの歌ではない

写真:沖縄テレビ
「さとうきび畑」は、寺島尚彦が作詞・作曲した、沖縄の戦争と喪失を描く歌です。
よく知られた繰り返しの言葉だけなら、穏やかな自然を歌っているようにも聞こえます。
けれど、11節を通して聴くと、同じ風が吹く景色の中に、帰ってこない父への思いが積み重なっていきます。
特別完全盤は10分を超える長い曲です。
節を重ねる時間そのものが、聴く人の受け止め方に関わっています。
風の音に戻るたび、それまでに聞いた言葉が頭に残る。
最初はただ美しかった風景が、誰かを失った人の暮らす場所として見えてきます。
同じ旋律の繰り返しでも、聴く側が受け取るものは少しずつ変わるのです。
森山は、この曲を通して歌う時間を、聴く人と平和への思いを共有する時間として大切にしています。
一部分だけで曲を知っていた人ほど、最後まで物語をたどると印象が変わるでしょう。
歌声の響きと、言葉が知らせる出来事。
その両方を追うと、澄んだ声が悲しみを遠ざけるのではなく、むしろ言葉へ耳を向けさせていることに気づきます。
悲しみを強く演じることだけが、伝え方ではなかった
森山自身も、最初からこの曲を迷いなく歌えたわけではありません。
戦争を経験せずに育った自分が、その悲しみを十分に歌えるのかと迷い、録音後もステージで歌うことをためらっていました。
後に向き合い直したとき、悲惨さを自分がすべて背負って歌おうとするより、詞と旋律を聴く人に届ければよいと考え、気持ちが軽くなったと話しています。
これは、感情を込めないという意味ではありません。
歌詞にすでに悲しみがあるなら、声で何重にも悲しさを説明しなくても伝わるかもしれない。
泣きそうな声を作ることと、聴く人が悲しみを感じることは、必ずしも同じではないからです。
たとえば、会ったことのない父を思う子どもの言葉を、一つずつ聞き取れるように歌う。
その言葉の後に旋律が続く間、聴く人は自分なりに情景を思い浮かべられます。
どこでどれほど悲しむかまで、歌手が決める必要はありません。
森山の話を踏まえて聴くと、声を大きくする場面だけでなく、言葉を置いて次の節へ進む部分にも注意が向きます。
一人芝居になったときも、言葉が歌を動かす
重い歌のあとに、まったく違う物語を聴いてみましょう。
「30年を2時間半で…」は、昔の恋人同士が久しぶりに出会い、忘れていた気持ちを思い出す曲です。
語りと歌が組み合わされ、一人の歌手が小さな芝居を見せるような作品になっています。
2008年1月の鎌倉公演の映像では、歌う森山の身ぶりや表情も、再会の物語と一緒に楽しめます。
この曲で聴きたいのは、歌の部分だけではありません。
話すように言うところと、旋律に乗って気持ちが広がるところ。
その変わり目があるから、懐かしい相手を前にした照れや、口に出すには気恥ずかしい思いまで想像できます。
最初から最後まで立派な声で歌い上げるだけでは、この人物のおかしみは見えにくいでしょう。
2016年には、斎藤工と共演する「50年を2分半で…」という新しい版も生まれました。
森山は、作品中の年齢が自分に合わなくなってきたことから、歌詞を改めています。
完成した歌をいつまでも同じように再現するのではなく、今の自分が演じて楽しい物語へ変えていく。
その身軽さも、森山の歌の魅力です。

写真:Yamaha Music Connect/撮影:阿部雄介
「さとうきび畑」とこの曲では、題材も、聴き終えたときの気持ちも違います。
共通しているのは、誰かの気持ちを、言葉と声で伝えることです。
大人の照れや可笑しさを伝えるにも、悲しみを伝えるときとは違う細やかさが要ります。
歌の人物がそこにいるように感じられるよう、歌声も語り口も使っています。
澄んだ声は、何も考えずに出ているわけではない
物語へ自然に引き込まれると、森山が声を操る苦労は見えにくくなります。
しかし本人は、何度も歌った「さとうきび畑」でも、出だしで調子の違いが分かり、歌いながら修正することがあると話しています。
いつも通りに聞こえる歌唱の内側で、本人はその日の声に対応しているのです。
森山は、幼い頃から続けてきたクラシックの歌の指導も大切にしてきました。
相談するのは、ただ高い音が出るかどうかだけではありません。
「さとうきび畑」の最初の「ざ」がきれいに入れない、「涙そうそう」の歌い出しの「ふ」が暗くなる。
聴く人には短い一瞬でも、歌手にとっては、曲の表情を左右する問題です。
この二つの相談では、難しさの場所が具体的です。
長く伸ばす高音ではなく、言葉が始まる最初の音に、自分の狙いとの違いを感じていました。
同じ高さの音を出せたとしても、言葉の入り口が思うように響かなければ、歌い手はそこで調整を考える。
声の美しさは、母音を伸ばしている時間だけで決まるものではないと分かります。
森山は先生に自分の声を聴いてもらい、一緒に考えてもらったと話しています。
どの曲にも同じ直し方を当てはめるのではなく、その日の声と、その言葉を確かめる。
よく知られた歌を繰り返す中でも、歌い出しの一音は、毎回あらためて選び直すものなのです。
だから、澄んだ声を保つ努力と、物語を伝える工夫は別々ではありません。
言いたい言葉が、意図した響きで相手に届くようにする。
声の調整は、そのためにも必要なのです。
歌手としての長い歩みと、近年のジャズの学び直しについては、森山良子の歌声の変遷でたどっています。
声に引かれ、いつの間にか歌の人物を思う
森山良子の歌は、声の美しさを楽しみながら、そこにいる人物のことまで考えられる歌です。
「さとうきび畑」なら、父を知らない子どもの思い。
「30年を2時間半で…」なら、昔の恋人を前にした大人の心の動き。
同じ歌手が、そのどちらにも声を与えています。
高音の伸びを味わったあとで、その前後の言葉にも戻ってみる。
語りが歌に変わる瞬間や、繰り返す旋律の中で物語が進むところを聴く。
そうすると「きれいな声だった」という印象の先に、歌の中で生きている人が見えてきます。
声を聴かせる力と、人の気持ちを伝える力。
その二つが結びついているところに、森山良子を聴く楽しさがあります。







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