森山良子の歌声はどう変わった?「きれいな高音」の悩みからジャズを学び直すまで

赤い上着で笑顔を見せる森山良子 シンガー
2026年の取材より。写真:神戸っ子

2007年、森山良子は蜷川幸雄との対談で、自分の声を「きれい」と褒められると、ほかに何かないのかと思う、と打ち明けました。デビュー前には曲のキーを下げたかったのに、高くしたほうが聴きやすく、結局はその高さで歌ったとも振り返っています。

それから17年。大江千里が森山のために書いたジャズの曲には、あえて高いソプラノのキーで歌ってもらったものがありました。若い日に嫌だった高音へ、ただ戻ったのでしょうか。2025年のブルーノート東京公演までをたどると、森山が向き合ってきたのは声の高さだけではなく、その声で何を、誰と、どのように歌うかだったことが見えてきます。

1967年――望んだ低いキーとは違う声で、歌手になった

森山は1967年、「この広い野原いっぱい」でデビューしました。父はジャズのトランペッター、母もジャズを歌い、家ではジャズが流れていた。本人は子どもの頃、ジャズシンガーになるつもりでいたと話しています。世間にはフォークの歌手として知られたものの、その音楽だけを聴いて育ったわけではありません。

デビュー時の高いキーには、本人の希望と聴き手に届く形との食い違いがありました。2007年の対談によれば、曲ごとにキーを下げたいと訴えたものの、上げたほうが歌が聴きやすくなると判断されました。森山はその声を自分の特技として守る責任も感じながら、深い思いを表す低い声も使いたいと語っています。

「この広い野原いっぱい」は、澄んだ声を手に入れた到達点というより、周囲に愛された声と、本人が探していた声が同時に始まった曲です。以下の正規配信音源は初期アルバムの曲をたどる入口ですが、YouTubeへの公開は2019年で、デビュー当日の歌唱映像ではありません。

「さとうきび畑」――歌えないと思った歌を、自分の意思で歌うまで

初期に託されたもう一つの曲が「さとうきび畑」です。作詞・作曲した寺島尚彦が楽譜を家に持ってきたとき、森山は戦争を知らない自分に歌える内容ではないと戸惑いました。録音はしたものの、舞台ではほとんど歌わずにいたと、2025年のラジオで振り返っています。

湾岸戦争の頃、母親から自分には歌うべき歌があると言われ、森山は譜面を出し直しました。大きな悲しみを自分で背負って演じなければならないと考えるのをやめ、詞と旋律を客席に届けることを選ぶと、歌う気持ちが軽くなったそうです。それからはコンサートで欠かさず歌うようになりました。

ここで起きた変化を、声量や音域の伸びに置き換えることはできません。かつては歌を引き受けること自体が怖かった人が、何を届けるために歌うかを決めて舞台に立つようになった。後年のアルバムに収められた「さとうきび畑」の特別完全盤は、その曲を通して聴ける正規音源です。曲の長い物語を一節ずつどう受け取るかは、森山良子の歌い方で詳しく扱っています。

1998年――「涙そうそう」で、自分の悲しみに言葉を与えた

「さとうきび畑」では、経験していない戦争の悲しみをどう伝えるかに悩んだ森山。今度は、自分の中にしまってきた悲しみが歌になりました。BEGINから届いた曲の題名「涙そうそう」の意味を聞いたとたん、若くして亡くした兄への思いがあふれ、滞在先のホテルで詞を書いたと振り返っています。曲は1998年のアルバム『TIME IS LONELY』に収められました。

森山はこの歌ができてから、悲しさを奥に押し込めるのではなく、天に向かって歌うことにしたと話しています。寺島尚彦から託された歌では、歌に描かれた人の悲しみを聴き手へ届ける道を見つけた。「涙そうそう」では、自分の記憶にある人を思う言葉を書き、その歌を自分の声で届ける道を選んだ。同じ澄んだ声でも、そこに託す物語の出どころが変わっています。

2003年――ジャズを録音して、なお学びたくなった

森山がジャズに取り組んだのは、近年が初めてではありません。2003年の『THE JAZZ SINGER』では、島健のプロデュースのもと、幼い頃から耳にしていたスタンダード曲を歌いました。「My Funny Valentine」もその一曲です。

それで子どもの頃の夢を済ませたわけではなかった。2024年の取材で森山は、このアルバムを作ったことで、ジャズをもっと深く追求したくなったと話しています。念願の曲を録音したことで、むしろ知らないことが見えてきた。その思いが、のちのニューヨークでの学びへつながります。

デビューの時には、歌いたい音楽と世間に求められる歌との間に距離がありました。ここでは憧れていた曲を自分のアルバムに収め、それでも、もっと知りたいと思った。最初のジャズ作品は、夢の終点ではなく、次の勉強の始まりになりました。

2010年――矢野顕子と歌って、ひとりで背負う力が抜けた

2010年、森山は矢野顕子と「やもり」を結成し、『あなたと歌おう』を出しました。矢野からフォークをやろうと提案された森山は、昔の自分の音楽へ戻ることを、かえって新鮮に感じたそうです。過去の形をそのまま再演するのではなく、二人で作り直す機会になりました。

二人の声についての本人の話が面白い。一人で歌うと、自分が歌を引っ張らなければと思ってしまう。ところが矢野と歌うと余計な力が抜け、録音を後で聴いたとき、どちらが上のパートを歌っているのか分からなくなることもあったというのです。森山は、その自然さを自分にとってよい歌い方かもしれないと感じました。

ここで変わったのは、声を目立たせる技術ではなく、声の置き場所です。ひとりで歌の中心に立つ声が、もう一人の声と混ざると、無理に前へ出なくても曲が動く。矢野と作るうち、複雑に考えすぎていたメロディーも、もっと素直に作れる感覚を思い出したと話しています。

2016年のインタビューに掲載された森山良子
2016年の取材より。写真:Yamaha Music Connect/撮影:阿部雄介

2023~24年――従兄の自由さから、日本語のジャズへ

2023年には、従兄のかまやつひろしが残した「ゴロワーズを吸ったことがあるかい」をカバーしました。森山は、ジャンルを決めずに音楽を楽しんだ従兄から影響を受けたと話しています。子どもの頃のジャズ、デビュー後のフォーク、そしてこうした曲を試す好奇心は、互いを打ち消しません。

その翌年に録音した『Life Is Beautiful』は、大江千里が書いた日本語の新曲を中心とするジャズ・アルバムです。大江は森山にジャズを歌いたい思いがあると知り、曲を提供したいと申し出ました。企画が形になるまで一年以上。森山は東京とニューヨークを四度往復し、発声やリズムの取り方を習ってから、2024年8月にニューヨークで録音しました。

大江は「TONIGHT’S SPECIAL」で、あえて高めのソプラノのキーで歌ってもらったと語っています。2007年に低い声も使いたいと話した森山が、高音を捨てたわけではありません。かつては高いキーを避けたいと望んだ。その高い声が、この新曲では大江に表現の一部として選ばれた。高い声を単に求められるだけだった頃と、新しい曲を学びながら歌う今とでは、その声の位置づけが違います。

大江は、森山と交わした昔の話も日本語の詞に織り込みました。ニューヨークではジャニス・シーゲルらからレッスンを受け、若い歌手たちと同じ曲を歌う授業にも参加した。一人ひとりへの先生の言葉で歌が変わることに、森山は感動したと話しています。自分の話が入り込んだ日本語の新曲なら、英語のスタンダードとは違う角度から言葉を引き受けられる。2024年の「Life Is Beautiful」では、彼女が学び直したジャズを、そのために書かれた曲でたどれます。

2025年以降――録音した歌を、舞台で自由にする

アルバム完成後も、森山はレッスンを続けました。2025年にはボストンで、一曲の最初のコーラスからアドリブをしてもよいのか、教師に尋ねています。森山にとって「ジャズらしく崩す」は、何でも勝手に変えるという意味ではなく、曲を伝えながら、どこから自分の気分を入れられるかという問いでした。

2026年の取材で森山は、新しいジャズの曲について、アルバムの録音では歌詞と旋律を伝えることを意識し、コンサートではその日の気分を加えて歌うと説明しています。録音を一つの完成形として大切にしながら、舞台で同じ曲を固定しない。新曲を習い、録り、さらに人前で歌い直すたびに、表現を作り続けているのです。

屋外でギターを抱えて微笑む森山良子
公式プロフィール掲載写真。写真:森山良子公式サイト

変わったのは「美しい声」の価値ではなく、使い方を決める自由

高い声を望まれてデビューし、その声だけで見られることに悩んだ森山。歌うのが怖かった「さとうきび畑」を自分の意思で引き受け、「涙そうそう」では亡き兄への思いに自分の言葉を与えた。矢野顕子と歌うときには一人で引っ張る力を抜いた。ジャズは一度アルバムにしたあとも学び直し、日本語の新曲を録音し、舞台ではまた形を変えています。

森山は高い声を捨てて別の声になったのではありません。かつて避けたいと望んだ高音が、大江との新曲では改めて生かされた。低い声への思いを抱きながら、もう一人と混ざる歌い方や、ジャズの自由なリズムも試しています。「きれい」と言われて終わらない歌を求めた思いが、長いキャリアの後にも新しい課題を見つける力になっているのです。

シンガー人気投票。投票ページはこちら

こちらの記事もおすすめ

コメント

タイトルとURLをコピーしました