北島三郎の歌声の変遷|「演歌ひとすじ」の人が「まつり」を変え続けた理由

2012年の北島三郎 シンガー
2012年の北島三郎。写真出典:明治座

北島三郎は、若いころ、よく響く声を出したくてテノール歌手の発声法を学びました。その後、いい声や巧みなこぶしだけでは人の心は動かず、歌詞が何を訴えているかを考えるようになったと話しています。歌い手の関心は、声そのものから、声で誰に何を届けるかへ広がりました。

本人は自分の道を「演歌ひとすじ」と呼ぶ一方で、「まつり」のリズムを舞台に合わせて変え、長く歌う「なみだ船」も、その日の一番新しい歌として扱いました。同じ道を進みながら、歌い方や歌を届ける場をどう変えてきたのでしょうか。本人の言葉と、時期の異なる作品をたどります。

1955~65年|一つの声で、違う暮らしを歌う

1955年、歌手を志して北海道から東京へ出た北島は、「流し」として客の前で歌いました。のちに本人は、デビューまでの約8年間に人の倍以上歌ったと思うと振り返っています。客から求められる歌を繰り返す時間は、レコードを出す前から、歌を誰かに手渡す仕事でした。

上京後に通った音楽学校では、イタリアのテノール歌手の声に憧れ、ひと月ほど発声法を学んだそうです。鼻や上顎に声を響かせる工夫もしました。しかし、北島は後年、きれいな声や上手なこぶしを聴かせるだけでは、人は感動してくれないと振り返っています。歌詞が何を訴えるかを考え、聴く人の中に景色や思い出が浮かぶことを大切にした。響く声を探すだけでなく、その声で物語を伝えることにも向かったのです。

1962年、「ブンガチャ節」でデビューし、同じ年の「なみだ船」で広く知られるようになります。その三年後、北島は「帰ろかな」「兄弟仁義」「函館の女」を同じ年に歌いました。本人の言葉で「色がまったく違う」三曲です。

「帰ろかな」は、離れた故郷へ心を向ける歌。北島は永六輔と中村八大の作品として、NHKの番組『夢であいましょう』で一か月にわたり毎週歌ったと振り返っています。

「兄弟仁義」は任侠の世界を描く歌ですが、北島自身には実際の仕事仲間との結びつきが重なっていました。作詞家の星野哲郎、ディレクターの斎藤昇とともに新しいレコード会社へ移ったときの思いが、この歌の源だと話しています。曲の物語をそのまま本人の実人生とすることはできません。それでも、義理を歌う言葉を、北島は身近な人間関係に引き寄せていました。

「函館の女」は、舞台を港町へ変えます。郷里へ戻ろうかと迷う人、義理を背負う人、函館にいる女性を思う人。同じ1965年の北島の歌でも、声を向ける相手と曲の景色はそれぞれ違いました。

北島は、歌詞の中には一枚の絵があり、歌うときに心でそれを描くとも話しています。海で働く人、山で働く人、街で頑張る人。歌の登場人物や景色は違っても、そこに生きる人の暮らしへ声を向けることが、初期からの軸になりました。三曲は、異なる物語を一人の歌手が引き受けていたことを示しています。

北島は後年、少年のころは歌が夢や希望の世界だったが、プロになってからは歌で何かを訴え、演じる必要があったとも振り返りました。好きな歌を歌えるようになることと、その歌を聞く人に物語として渡すことは同じではありません。初期の多彩な曲は、歌手になってからのその仕事の広がりを示しています。

1974~2006年|「なみだ船」を古い歌にしない

1974年、北島は自分の音楽事務所を設立しました。仲間と大切なものを一から作りたいと考えたからだ、と2006年の取材で説明しています。その話の中で出てきたのが、「なみだ船」の意外な捉え方でした。

1962年のヒット曲を40年以上歌い続けていても、昔の録音を唯一の完成形とは考えません。北島にとっては、今日歌う「なみだ船」がその日の一番新しい「なみだ船」です。レコードになった時点で終わり、あとは同じ形を繰り返すという発想ではありませんでした。

北島が語るのは、同じ曲を、今日の自分と目の前の人のために歌い直すという態度です。芸の道に完成はなく、歌手が投げかけた歌をファンが受け止める。長く歌われる曲ほど、新しい公演のたびに現在の歌になります。

1984~2006年|「まつり」はレコードから劇場の結末へ

1984年11月、「まつり」が発売されました。現在では劇場公演の豪華なフィナーレを思い浮かべる人も多い曲ですが、北島によると、最初からあの舞台の形だったわけではありません。ステージの最後にふさわしいと思い、サンバ風にしたりビートを変えたりしながら、異なる「まつり」を作ってきたと2020年の対談で明かしています。

北島は2017年の取材で、歌う場所が変われば歌い方も表現も違うと説明しています。場所に合わせることは、自分の「本線」を捨てることとは違います。発売された一曲を、公演を締めくくるために作り替えていく。2006年の新宿コマ劇場での映像は、その途中にある舞台の記録です。1984年のレコードと同じ編成の資料として扱うことはできませんが、曲に求められる歌い方が劇場の場とともに変わってきたことは、本人の説明から分かります。

2012年|「聴く歌」に「見る歌」を加える

デビューしたころはラジオの時代。北島は、目を閉じても歌の景色が浮かぶようにと考えて歌っていたそうです。2017年には、歌を聴かせると同時に見せる時代に変わったとも振り返りました。歌詞の情景を届ける仕事に、観客の目に映る舞台も加わったのです。

2012年の明治座公演を前に、北島は舞台の曲を「聴く歌」と、一緒に歌う歌とに分けて選ぶと話しました。「風雪ながれ旅」のように一人の人生を聴かせる曲も、舞台で歌い続けています。そしてフィナーレには、客が思わず見上げてしまうほどの仕掛けを用意する。本人は、客が「まつり」を聴くのも忘れてしまう、と笑っています。

2014年の明治座にも「風雪ながれ旅」を歌う公演の記録が残っています。耳を傾ける一曲と、劇場が一つになる最後の一曲。北島は劇場の中で、歌の役割を切り替えていました。

一曲の届き方が、耳からだけでなく舞台全体へ広がりました。北島は、静かに言葉を届ける歌と、大勢で迎えるフィナーレを、公演に合わせて使い分けてきました。「まつり」でどこに掛け声が入り、客席がどこで応じたくなるのかは、北島三郎の歌い方の記事で扱っています。ここで追いたいのは、声の届け方を歌う場所に合わせて変えてきたことです。

2020~25年|「まつり」を人に渡し、新しい歌も出す

「まつり」の変化は、北島の舞台だけで終わりませんでした。2020年の対談で、木梨憲武は、自分のライブの最後にこの曲をロック調にしてテンポも速く歌ったと北島に報告しています。木梨が思い出していたのは、新宿コマ劇場で見た北島のフィナーレでした。

北島はその試みを受け入れ、自分もかつてサンバ風や異なるビートを試したのだと話しました。自分の代表曲だから同じ形で守ってほしい、とは言わなかったのです。舞台に合わせて変えてきた本人だから、別の歌い手が別の客席へ届ける形も認められたのでしょう。

北島自身も、かつての代表曲だけを歌っていたわけではありません。2025年11月には、自ら原譲二の名で作詞・作曲した「吾が道を行く」を発表しました。2015年に長く続けた座長公演を終え、2022年には芸道60周年のファイナルコンサートを行っています。それでも新しい歌を世に出したことは、「演歌ひとすじ」が、昔の持ち歌だけを守る宣言ではないと教えてくれます。

2026年|一人の舞台から、歌い手たちのフィナーレへ

2026年6月、MUSIC AWARDS JAPANの演歌・歌謡曲ライブで、北島は特別功労賞を受けました。公式レポートでは、北島の合図で「まつり」のフィナーレが始まり、ベテランも若い歌手もステージで一緒に歌ったと記されています。北島一人の劇場を締めくくっていた曲が、多くの歌い手の集まる場を締めくくる曲にもなったのです。

2026年6月、トロフィーを授与される北島三郎
2026年6月、トロフィーを授与される北島三郎。写真出典:ENCOUNT

同じ2026年の式典で、北島は自分の歩んだ道をなお「一筋」と呼びました。その言葉は、変化を拒んだという意味ではないのでしょう。2012年にも北島は、枝葉は変えたが幹は動かしていないと話しています。本人がいう演歌とは、働き、暮らす人の励みになる「生活の歌」です。

若いころの響く声への関心に、歌詞の情景を相手に伝える意識が加わりました。ラジオで景色を思い描かせる歌から、劇場ごとに表現を変える歌へ。「まつり」はほかの歌手と分かち合うフィナーレにもなりました。「なみだ船」をその日の歌として歌い、「まつり」をその場に合う姿へ育てる。北島三郎が守ってきたのは一つの録音の形ではなく、受け取る人のいる現在へ歌を運び直す道です。

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