1985年、ちあきなおみは東京・草月ホールで「待夢II」という公演を開きました。かつてのマネージャー古賀慎一郎は、後年その記録映像を見て、そこに「喝采」も「夜へ急ぐ人」も「矢切の渡し」もなかったと振り返っています。歌い方も、力を込めて声を張るより、自然に語るように感じられたといいます。ヒット曲を持つ歌手が、それらを歌わず、自分のアルバムで取り上げた曲を中心に舞台を作っていたのです。
かつて「夜へ急ぐ人」を歌った人が、なぜここでは声を張らず、ヒット曲も外したのでしょう。ちあきなおみは、何を歌う人になろうとしていたのか。 初期の歌と舞台、アルバムを中心にした時期、そして再びテレビや劇場に立った時期をたどると、歌い方の選択と、その声を届ける場所の両方が見えてきます。
ヒット曲の歌手になる前から、歌う場所は一つではなかった
1969年のデビュー曲は「雨に濡れた慕情」。続く1970年の「四つのお願い」で広く知られ、1972年の「喝采」は日本レコード大賞を受賞しました。こう並べると、ヒットを重ねて歌謡曲の中心へ進んだ、一直線の歩みに見えます。
ただ、レコード会社のプロフィールによれば、デビュー前からロカビリーなどの洋楽を歌い、ジャズ喫茶に立ち、演歌を含む日本の流行歌も学んでいました。テレビのヒット曲だけで生まれた歌手ではありません。初期の録音を聴く入口は「雨に濡れた慕情」ですが、この曲だけで後の活動を予告できるわけでもないでしょう。
「喝采」は彼女の代表曲になりました。一方で、1973年に渋谷公会堂で収録されたライブ盤『ちあきなおみ ON STAGE』の曲目には、「四つのお願い」「喝采」に加えて、洋楽のスタンダードなども並びます。ヒット曲を歌いながら、それとは別の歌を舞台に置く選曲は、1980年代になって突然始まったものではありません。
1974年の中野サンプラザ公演を収めた『ちあきなおみ リサイタル』では、その幅がさらに分かります。構成と演出を手がけた砂田実は、後年の取材で、彼女の新しい魅力を引き出そうと、持ち歌だけでなくシャンソンや浅川マキの「かもめ」を選んだと振り返っています。会話を一人芝居のように歌で表す「ねえあんた」も、この公演のために生まれました。ヒット曲を披露するだけでなく、声で人物を描く舞台を作ろうとする動きが、この時点ですでにあったのです。
「ねえあんた」で誰が誰に語りかけているのか、「喝采」で舞台の歌手がどんな気持ちを抱えているのかは、歌い方を扱った記事で詳しく考えました。ここでは、そのような歌をヒット曲と同じ公演に置き、のちに歌の選び方そのものを変えていった歩みに注目します。
「夜へ急ぐ人」のあと、ヒットを追う道から離れた
1977年には、友川かずきが書いた「夜へ急ぐ人」を発表しました。友川は依頼を受けた後で彼女のステージに足を運び、ジャニス・ジョプリンの歌を歌う姿を見てから曲を書いたと話しています。彼が見た激しい歌唱は、このシングルより前から舞台にあったのです。「穏やかな歌手が突然激しくなった瞬間」と決めつけると、その事実が抜け落ちます。
この時期の歌が、ただ激しい曲ばかりだったわけでもありません。1978年のアルバム『あまぐも』を論じた音楽評論家の和田信一郎は、「涙のしみあと」の抑えた伴奏の中にも激情を感じ、「夕焼け」では温かく受け止める力加減を評価しています。一方、「夜へ急ぐ人」や「普通じゃない」には芝居がかった曲調を見ています。和田の評価に従えば、抑える歌と外へ噴き出す歌は、一枚のアルバムに同居していたのです。
転機をはっきり示すのは、むしろ1978年以降の活動方針です。日本コロムビアのプロフィールでは、結婚を機に、ヒット曲を追うより自分が歌いたい歌にじっくり取り組みたいと考え、しばらく充電期間に入ったと説明されています。シングルのヒットを中心に活動を測る形から、歌いたい作品を選んで掘り下げる形へ、重心が移ったのです。
1981年、ビクターへ移って発表した『それぞれのテーブル』はシャンソンを中心にしたアルバムでした。1982年の『THREE HUNDREDS CLUB』ではジャズのスタンダード、1983年の『待夢』ではファド、1985年の『港が見える丘』では日本の古い流行歌を取り上げています。四枚は一つのジャンルに落ち着くための連作ではありません。好きな歌を、自分のアルバムとして歌い直すために、そのつど違う曲の世界へ入っていった記録です。
1985年の『港が見える丘』に収めた「星影の小径」は、当時の録音へ触れられる一曲です。後年シングルでも発売されましたが、このアルバムに収められた歌唱は1985年のもの。1992年の発売日を見て、活動休止後の新録音と取り違えないようにしたいところです。
冒頭の「待夢II」は、その四枚を作っていた時期の舞台です。古賀の見た、声を張らず自然に語るような歌唱は、ヒットを追う仕事から離れ、選び直した曲を歌う舞台と重なります。力強く歌えなくなったという話ではありません。激しい「夜へ急ぐ人」をレパートリーに持つ歌手が、違う表現をその日の舞台に選んだのでしょう。
2017年、初期から1992年までの映像を広く見直した評論家の鈴木裕は、時を経るにつれアクセントやビブラート、表情の強調が減り、歌詞と旋律そのものを前に出す方向を感じたと書いています。これは鈴木の比較による評価で、一曲ごとの発声を測った結果ではありません。古賀が1985年の舞台で受け取った印象と通じる一方、後の歌にも激しさが残ることを考えると、「声が弱くなった」という一本線では捉えられません。
「紅とんぼ」で戻ったのは、昔の歌謡曲だけではない
1988年、ちあきはテイチクに移り、テレビの歌番組にも再び出演しました。「紅とんぼ」が広く聴かれ、同年の紅白歌合戦にも復帰します。ここだけを見ると、1980年代前半の試みを終えて、昔の歌謡曲へ戻ったようにも見えるかもしれません。
しかし、同年春のアルバム『伝わりますか』には、「かもめの街」「冬隣」のほか、飛鳥涼が作詞・作曲した表題曲など、新しい作品が並んでいました。テレビへ戻ってからも、「喝采」の成功を繰り返すだけの活動にはなっていません。1980年代前半には自分が歌いたい既存の作品をアルバムで探し、後半には新しい曲も引き受ける。その両方を通じて、レパートリーを選び直していたのです。
古賀は、同じアルバムに入った「TOKYO挽歌」をコンサートで聴き、終盤に叫びに近い高音へ上がる歌唱に驚いたとも記しています。これは舞台袖で聴いた彼の証言です。「待夢II」の穏やかな歌唱と並べると、強く歌う手段が消えたのではなく、曲と舞台に応じて出し方を変えていたことが見えてきます。
その年の暮れには、石原裕次郎の曲を全編で取り上げた『夜霧よ今夜も有難う ちあきなおみ石原裕次郎を唄う』も出しています。一人の男性歌手に結びついた作品を、自分のアルバムの主題に選ぶ。新作の「紅とんぼ」と同じ年にこの盤があることからも、再登場を単純な「昔のヒット歌謡曲への回帰」とは言えません。
1991年にシングルになった「黄昏のビギン」も、もとは長く歌い継がれてきた曲です。古い歌を新しいレパートリーとして取り上げる道は、1985年の『港が見える丘』で終わらず、再び表舞台に立った後にも続きました。ビクター時代とテイチク時代を完全に分けてしまうと、そのつながりが見えなくなります。
舞台では「歌手」と「役」を歌い分けようとした
もう一つの変化は、歌を届ける場所です。1989年、ちあきは舞台『LADY DAY』でジャズ歌手ビリー・ホリデイを演じました。歌番組で一曲を披露するのとは違い、そこでは歌が一人の人物の人生と結びつきます。過去の曲を歌うだけでなく、役として歌う仕事へ踏み込んだのです。
1991年の舞台『ソングデイズ』では、終戦後の東京を舞台にした物語で、歌い手のカルメンを演じました。当時の読売新聞の取材で、ちあきは劇中歌の選曲にも参加し、カルメンとして歌う場面と、ちあきなおみ自身として歌う場面を分けて考えていると話しています。歌謡ショーにも、曲が続くだけのミュージカルにもしたくない、という意図も語っていました。
この証言から読み取れるのは、「人物になりきればよい」という単純な考え方ではありません。どの場面で誰として歌うかを決め、その違いを一つの舞台の中に残そうとしていたのです。曲に登場する人物を表す力が、舞台全体の構成を考える仕事へ広がっていました。
1991年には「紅い花」も発表しています。ちあきは翌1992年、夫の死を機に芸能活動を休止しました。その後も再発売や配信で歌を聴くことはできます。ただ、後年の発売年を、新たな歌唱活動の年と取り違えてはいけません。
1985年の「待夢II」でヒット曲が外れていたことは、代表曲を捨てたという話ではなかったのでしょう。激しさを出せる人が、ある舞台では声を張らずに歌い、後には新しい作品も、古い流行歌も、劇中の役も引き受けました。ちあきなおみの変遷は、声が一方向に落ち着いていく物語ではありません。作品と場所に合わせて、激しさ、語り、役としての歌を選び分けていった歩みです。







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