「ベステンダンク」の一行を、高野寛は長年のライブで変えて歌っていた。
そして2019年、約30年前のヒット曲を録り直すとき、その言葉をさらに選び直した。
まだ届いていない場所を、今の自分はどのくらい近く感じているのか。
再録で確かめたのは、昔の歌をどれだけ再現できるかだけではなかった。
そこへ至るまでには、音程を合わせることで精いっぱいだった録音も、客席を前に思うように歌えない時期もあった。
自分の声への抵抗を抱えていた人が、歌える範囲の中に表現を見つけ、同じ曲を今の言葉で届けるまでをたどってみよう。
「ベステンダンク」(1991年『AWAKENING』収録)。
1988年、歌入れに七時間半かかったデビュー曲
高野は、最初から歌手になることを目指していたわけではない。
プロデューサーの高橋幸宏に歌うことを勧められ、1988年に『hullo hulloa』でデビューした。
自宅で音を重ねてつくることと、プロのスタジオで自分の声を録ることには、本人が予想しなかった差があった。
デビュー曲「See You Again」では、音程が合っているつもりで歌っても、録音を聴き返すと高くなっていた。
後になって、ヘッドホンの音量を上げすぎていたと気づいたという。
その場では理由が分からず、コーラスを含めて七時間半も歌い続けた。
高野はこの経験を、苛立ちとともによく覚えている。
幸宏は、初めてのスタジオ仕事に根気よく付き合った。
高野は後年、音程とリズムに厳しい指導で鍛えられた集中力が、その後の財産になったと振り返っている。
曲を思い描けることと、それを自分の歌で実現できることの間を、録音の現場で埋めていた。
一方、正確さを気にするほど、別の難しさも生じた。
本人の回想では、歌い始めると自分を客観的に聴けなくなり、音程へ意識が偏って、表情が平坦になりがちだったという。
外から判断してくれるプロデューサーがいれば、自分は思いを歌へ注げる。
誰かに任せることは、このころから歌うための大切な助けだった。
1992年、歓声に押されて声を出し切る
1990年に「エーテルダンス/ベステンダンク」を発表し、翌年のトッド・ラングレン制作アルバム『AWAKENING』にも「ベステンダンク」を収録した。
ヒット曲を持つ歌手になった後も、ライブは試行錯誤の場だった。
高野は、初期には弾き語りの集中が二曲ほどしか続かず、曲と曲の間も持たなかったと話している。
1992年秋、アルバム『th@nks』発表後の学園祭ツアーが行われた。
最終日の福岡・西南学院大学の録音を、高野は2023年に発掘して公開している。
今堀恒雄、有賀啓雄、松永俊弥と、自分を含む四人編成。
鍵盤を置かず、二本のギターとベース、ドラムで演奏するバンドだった。
聴き直した本人は、当時の歌もギターも、今とは別人のように荒削りだと感じたという。
先輩たちの演奏についていくために練習を重ね、客席の大きな歓声に押されて、後半はシャウト気味になったのではないかと振り返った。
当時は、力を出し切らないと気が済まなかったとも書いている。
同時に、歌いながらギターを弾くバランスが、ようやく取れ始めた時期だったのかもしれない、とも述べている。
勢いだけで乗り切った思い出ではなく、歌と演奏を一緒に運ぶ感覚が育っていた記録でもある。
この公演は、本人が公開した『LIVE 1992「th@nks」』に残されている。

写真出典:音楽ナタリーのアーティスト写真
一人で場を支え、ライブで曲を育てる
弾き語りのツアーを始めたのは、本人の記憶では1998年か1999年ごろ。
一人で各地を回る経験を重ね、ワンステージを歌いきれるようになっていった。
その後、宮沢和史との海外公演などで、曲を知らない客席や、壊れたレンタル機材にも向き合うことになる。
高野はそうした経験から、不測の事態にも慌てず対処できるようになり、ライブへの恐怖心が薄れたと話している。
舞台が怖くなくなると、録音との順番も変わった。
以前はスタジオで完成させた曲をライブへ持ち出し、実際に歌うと、構成や歌詞を変えたくなることがあったという。
それなら先にライブで試して、歌いやすい形まで育ててから録音しよう。
2018年の取材では、その循環ができつつあると説明している。
演奏に変化をつけようと、テルミンや機械を持ち歩いた時期もあった。
やがてギター一本でも、さまざまな弾き方ができるようになった。
機械に熱中すると客席が見えなくなることもあるから、ちゃんと歌を届けたい、と本人は話している。
一人で演奏する力は、歌っている最中に何へ意識を向けられるかも変えていったのである。

写真出典:音楽ナタリーの2019年ライブ報告
2018年、自分の甘い声を生かせる歌に出会う
2018年の『A-UN』では、佐橋佳幸とDr.kyOnによるDarjeelingにプロデュースを任せた。
中心に置いたのは、他の歌手へ提供した曲のセルフカバーだ。
自分の曲でも、自分が歌うためにつくったわけではない。
高野は約一か月、ライブの準備のように歌とギターを練習し、スタジオで一緒に演奏できる状態へ持っていった。
矢野顕子と共作した「ME AND MY SEA OTTER」も、その一曲だった。
複雑なコードの響きを、自分がギターで表すならどうするか、一度録音して佐橋へ渡した。
歌詞やコードを覚え直し、今の自分に無理のないキーも探る。
本番ではギターを弾かず歌に専念でき、準備のときとは違う気持ちで曲に向き合えたという。
坂本美雨のコーラスも加わり、矢野のために書いた曲が、今の仲間と歌う作品になった。
「ME AND MY SEA OTTER」(2018年『A-UN』収録)。
ここで表に出てきたのは、自分の声に対する考えの変化でもある。
高野は40歳くらいまで自分の声に引っかかるものがあり、甘い声をコンプレックスに感じた時期があったと話している。
もっと幅広く表現したいと思っても、歌い手として思うようにできない。
そこで、自分に歌える範囲の中で何を表せるか、と考えるようになった。
『A-UN』の「とおくはなれて」は、その変化を語るときの具体例になる。
ゆっくりした曲での歌の味わいを問われ、高野は、若いころには出せなかったことを認め、ようやくこうした曲を歌えるようになったと答えた。
自分ならポップな音を足したくなるところを、Darjeelingが別のまとまりへ導いたことも大きかったという。
自分の声を変えようとするだけでなく、その声が働く曲と編曲を他者と見つける経験だった。
同作の「時代は変わる」では、ボブ・ディランの歌を日本語に置き直した。
訳詞を机の上だけで完成させず、一年ほどライブで歌い、違和感のある言葉を少しずつ直している。
以前は完成した曲を舞台で再現しようとしていた人が、舞台で歌った手応えを、完成形の判断に使うようになった。
この往復は、昔のヒット曲を録り直すときにも生きてくる。

写真出典:音楽ナタリーの2019年ライブ報告
2019年、「ベステンダンク」を今の実感で歌う
『City Folklore』で再録した「ベステンダンク(2019 ver.)」には、長年のライブで歌ってきた歌詞の変更が反映された。
目指す場所までが遠すぎると感じていた原曲に対し、新しい録音では、そこへ少しずつ近づいている実感を歌う。
高野は、手が届きそうだと歌った時期もあったが、まだ届いた実感はなく、もう少しだという言葉のほうが自分に合うと説明している。
成功を宣言するほどではない。
それでも、初めに歌ったころと同じ距離に立っているわけではない。
長く歌ってきた曲の中に、現在の自分が無理なく言える言葉を残そうとしたのである。
音作りは冨田恵一に大きく委ねた。
高野が歌とギターを中心にした簡潔なデモを渡し、冨田がそれを編曲する。
自分の想像とは違う音が返ってくることを、高野は新鮮に感じたという。
「ベステンダンク」も、最初はさらに電子的な編曲だったものを、他の収録曲となじむよう調整している。
歌とギターへ集中できた結果、本人は、これまでで最も自然に歌え、曲によって歌い方の幅も広がったと振り返った。
デビュー時に音程の判断を他者へ頼った経験が、長い年月を経て、他者の編曲に自分の新しい歌い方を引き出してもらう関係へつながっている。
技術を身につけても、すべてを一人で決めることが到達点ではなかった。

写真出典:音楽ナタリーの2019年ライブ報告
七時間半の歌入れ、声を出し切った1992年の舞台、一人で回るツアー、自分の声を生かすセルフカバー。
その先で選び直した「ベステンダンク」の言葉には、歌い手として歩いてきた時間がある。
昔の声に戻るのではなく、今の声と実感で歌う理由を見つける。
だからこの曲は、長い活動の途中で何度も現在形になってきたのだ。
歌詞のアクセントやギターと声をどう結びつけるかは、高野寛の歌い方で掘り下げた。







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