昔と同じ高さで歌えなくなったとき、歌そのものはどう変わるのでしょうか。
中村雅俊は、声の調子に合わせてキーを下げるなかで、その高さにも表現の可能性があると気づいたそうです。
若いころの伸びやかな声、桑田佳祐や小田和正との制作、歌えない期間を経て臨んだ新しい舞台。
それぞれの場面で何を受け取り、今の声でどう歌おうとしてきたのかをたどります。
ふれあい(1974年・シングル音源)
「ふれあい」のころは、高い声も楽に出せた
1974年、ドラマ『われら青春!』への出演とともに、歌手としても「ふれあい」で大きな成功を収めた中村。
本人が後年振り返る初期の歌には、無理なく伸びやかに声を出していた感覚がありました。
2016年のインタビューでは、「ふれあい」などのころは、もっと高い声も楽に出せたと話しています。
出せる高さだけでなく、歌うときの余裕も、若いころの声を語る手がかりです。
一方で、活動を続けるにつれ、歌手として舞台に立つ意識も変わりました。
2022年のラジオでは、初期には俳優が歌っているという言い訳もしていたものの、ライブを重ねるなかで、それではいけないと思うようになったと振り返っています。
自分を聴きに来た人に向き合う場所では、歌い手として力を尽くす。
この姿勢が、ドラマの役柄と結びついた歌から、その先へ進む支えになっています。
1982年、仮歌から受け取った新しい歌い回し
1970年代と1980年代の違いについて、中村自身は、優しい歌い方から少しずつ男性的な歌い方へ移ったと説明しています。
2019年の取材で語った変化で、初めから歌い方を計画して変えたわけではなく、楽曲や役柄との関わりもあったそうです。
その過程の具体例が、桑田佳祐の作詞・作曲による1982年の「恋人も濡れる街角」です。
桑田は仮歌を担当し、録音にも朝まで付き合ってくれたといいます。
中村は、その仮歌で覚えたため、自分の歌い回しにも桑田の調子が入ったと明かしています。
曲を受け取ることは、音符を覚えるだけでなく、作者がどんな調子で言葉を歌うかに触れる体験でもありました。
この曲で、歌い手として認められ方が変わったという実感もあったそうです。
歌う本人の内側で起きた歌い回しの変化と、聴き手に伝わる中村雅俊の幅が、ここで重なっています。
初期のイメージに収まりきらない曲との出会いが、その後の歌を考えるうえでも大きな節目でした。
恋人も濡れる街角(1982年・シングル音源)
1998年、小田和正の歌い方を学んでも残った自分の声
新しい曲が、いつも自然に身についたわけではありません。
1998年の「小さな祈り」では、小田和正の事務所で約3時間、歌い方を教わりました。
2019年に中村が振り返った難しさは、フレーズの切り方の違いです。
短く切る小田に対し、自分には語尾を伸ばす癖があり、歌えるようになるまで苦労したといいます。
それでも後から録音を聴くと、結局は自分の歌い方が残っていると感じたそうです。
教わった表現を試すなかで、変えにくい持ち味にも気づいた経験といえます。
小さな祈り シングル音源(1998年)
2016年、声を出す感覚の変化を認める
「ならば風と行け」を発表した2016年には、昔の歌いやすさに対して、そのころは声を絞り出すような感覚があると語っていました。
当時、特別なボイストレーニングは受けていないとも答えています。
若いころと同じ身体感覚のままで歌っているわけではないことを、本人も意識していたのです。
同じ取材では、作家からの提案によって、自分でも気づいていない良さが見えることにも触れていました。
自分ならこう歌うはずだ、と先に決めきらず、渡された曲を歌ってみる。
声の出しやすさが変わる時期にも、作り手とのやり取りは続いています。
声の変化に目を向けると同時に、新しい曲との相性も探していたことがわかります。
ならば風と行け(2016年・公式MV)

画像出典:写真掲載元
2021年、客席の近い場所で歌を選び直す
長く続いてきた公演が、コロナ禍で途切れたことも大きな出来事でした。
2021年、初のビルボードライブ公演を前にした取材では、歌えないことのつらさを知り、再び歌える喜びが大きいと話しています。
長年積み重ねた舞台にも、当たり前に立てるわけではないと感じた時期です。
新しい会場を考えるとき、中村が注目したのは、客席との近さでした。
小さな息づかいまで伝わるような距離を意識し、別れを歌う曲など、感情を届けたい歌を選んでいたそうです。
なかには、玉置浩二が作曲し、中村が作詞した「19 June」もありました。
過去に歌った回数が少ないため、あらためて練習していると説明しています。
どんな場所で、どのくらいの距離から聴いてもらうかによって、届けたい歌を選び、歌い慣れていない曲にも取り組む。
キャリアを重ねた後にも、舞台が変われば、新しく向き合う課題が生まれていました。
ビルボードライブ「DAWN」番組紹介映像(2021年7月6日・横浜公演)
自宅で歌う時間と、同じ曲に生まれた別の意味
2022年には、高さや声の出方の変化を感じ、自宅で好きな曲を20〜30分歌うことを、自分のトレーニングにしていると話していました。
家で声を出すだけでも良いと感じている、という本人の実感です。
特定の高さを取り戻したという話ではありませんが、変わった声と付き合うために、自分から歌う時間をつくっています。

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その一方で、同じラジオでは、「ふれあい」に込める気持ちの変化も語っていました。
東日本大震災の後、故郷の宮城県で歌うときには、デビュー時とは違い、相手を励ましたい気持ちが湧いたそうです。
同じ詞と旋律でも、歌う場所や聴く人の状況が違えば、歌い手の受け止め方も変わります。
声を出す準備と、何を伝えようとして歌うか。
後年の歌には、その両方が関わっているのです。
キーを下げることが、新しい表現になるまで
2023年には、声の調子に合わせてキーを下げるなかで、下げた高さにも合う表現があるとわかってきたと話しています。
若いころと同じ音を出せるかどうかだけでなく、その時々の声で歌をどう届けるかへ、考え方が広がっていました。
同時に、年齢を重ねたことで、以前から歌っている詞への理解も深くなったそうです。
具体的に挙げたのが、1977年のアルバムに収められた「辛子色の季節」です。
20代で歌った当時を経て、青春を振り返る言葉が、今の自分には違った重みを持つと感じていました。
過去の歌を選び直す理由が、懐かしさだけではないことがわかります。
辛子色の季節 アルバム『辛子色のアルバム』収録音源(1977年)
語尾や言葉のつなぎ方に注目すると、こうした変化のなかにも残る持ち味が見えてきます。
詳しくは中村雅俊の歌い方でも扱っています。
楽に高い声を出せた時期から、作家の歌い方を受け取り、自分の癖と向き合い、声の変化を認めて歌う時期へ。
中村雅俊の歌は、曲との出会いにも、その後の経験にも動かされてきました。
昔の歌が今の自分に近づくこともある。
その発見が、現在の声で歌い続ける理由の一つになっています。







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