EPOは、ポップスを歌う自分も本物だと考えながら、自分の声がもっと生きる音楽を探していました。
コーラスの多重録音、英国での制作、声を楽器として使う作品。
その歩みには、声の役割と、歌う場を広げてきた時間があります。
2024年末には、声が出なくなる経験もしました。
何を歌うかを選んできた人が、歌えること自体にも改めて向き合った変遷をたどります。
「DOWN TOWN」(1980年作品のリリックビデオ)
コーラスの仕事で、自分の声の生かし方を知る
1980年に「DOWN TOWN」でデビューする前、高校時代のEPOは、バンドのリード・ボーカルではありませんでした。
ピアノ、コーラス、楽曲提供を担当していたと、2025年のotonanoの取材で振り返っています。
大学に進んでからは、竹内まりやや大貫妙子の録音でコーラスを手伝いながら、デビューの準備をしていました。
EPOは、ほかの声や演奏の中に入る裏方の仕事を好んでいました。
その特性が、デビュー後には仕事の形にもなります。
1981年の『JOEPO〜1981KHz』にまつわる企画では、全国のラジオ番組に向けて、短い番組用の音楽を作るキャンペーンを行いました。
EPOは多重録音で、数多くのサウンドステッカーを制作します。
録った声に別の声を重ね、一つの音楽に仕上げる作業です。
本人は、その仕事の中で自分の声の生かし方をつかんだと話しました。
歌手として前に立つ経験と、重ねる声を組み立てる経験が、同じ時期に積み重なっていたのです。

中央がEPO(2025年掲載)。
画像出典:TOKYO FM「SUNDAY’S POST」
元気な歌が知られるほど、そのイメージが重くなる
1983年には「う、ふ、ふ、ふ、」が大きなヒットとなりました。
ただ、知ってもらえる喜びが、そのまま歌い続ける気楽さにつながったわけではありません。
otonanoの取材でEPOは、周囲の期待に応えなければという重圧が大きくなったと振り返っています。
曲作りとライブが続き、ほかの経験をして自分を満たす時間が取れず、消耗していく感覚もあったそうです。
2025年のラジオ『SUNDAY’S POST』では、その頃の自分への思い込みも語りました。
元気なEPOとしてデビューしたため、いつも元気でいなければならないと、自分で考えていたというのです。
30歳を過ぎてから、好きなことをしてよいと思えるようになり、表現できる音楽の幅が広がったと説明しています。
明るい歌を歌いたい時と、いつも明るく見せなければと思う時では、声に託す気持ちも違います。
その一つのイメージから自由になることが、何を歌うかを選び直すうえでも大切だったのでしょう。
英国での制作から、声と生き方が合う『WICA』へ
EPOは1987年に渡英し、活動の場をロンドンへ移しました。
2009年のCDJournalの取材では、20代の頃から、自分の声が最も生きる音楽を考えていたと話しています。
ポップスへの愛着を持ちながら、それ以外の表現にも挑みたいと思っていたのです。
ヴァージンUKから、自分らしい作品を作ってほしいと言われたことが、その思いを形にするきっかけになりました。
英国で作った『FIRE & SNOW』は1991年の作品です。
帰国後には、1992年の『WICA』へ進みます。
EPOはこのアルバムに、身体と声がうまく合ったと感じる作品が多く、その後の音楽につながったと話しました。
公式サイトでも『WICA』は、生き方と歌を離さず、等身大の歌を作ろうと決めた頃の作品とされています。
プライベートライブを始めたのもこの時期でした。
声に合う音楽を探すことが、自分の日々の感覚から離れない歌を作り、聴き手と出会う方法を考えることへつながっています。
「Wica」(1992年作品、1994年「Kawi -Uta no Tani-」収録音源)
自分の曲を、別の響きで歌い直す
1993年の『EPO Works』では、「DOWN TOWN」などをアコースティックな形で歌い直しています。
長く歌った曲にも、新しい響きの中で向き合っていたのです。
「DOWN TOWN」セルフカバー(1993年『EPO Works』収録音源)
1994年には、初めて沖縄で録音した『VOICE OF OOPARTS』を発表します。
公式サイトが題名の意味として紹介しているのは、声の工芸品という言葉です。
ミルトン・ナシメントの「トラベシア」のカバーも収録しました。
親しんできたレパートリーを歌い直すことと、別の作り手の音楽へ自分の声を入れること。
どちらも、歌の選択肢を増やしていく過程として見ることができます。

画像出典:写真掲載元
ライブで育てた音楽が、2009年の『AQUA NOME』になる
2009年の『AQUA NOME』には、ライブで長い時間をかけて育てた音楽が収められました。
EPOは2000年頃から、この音楽をライブで披露していたと話しています。
聴き手がそれまでのイメージとの違いに驚くこともありましたが、すぐ録音を完成させず、共演者の中に音楽が深くなじむまで時間をかけたかったそうです。
公式サイトに紹介されているユニットには、ギター、打楽器のほか、馬頭琴やウードを扱う演奏者も参加しています。
その中で「M」は、幻の大陸をイメージし、EPOの声が楽器として加わる曲でした。
言葉で物語を伝える歌に加え、声の響きも、楽器とともに景色を作る役割を担います。
本人が想像していたのは、海や島と、その上空を飛ぶような光景でした。
頭に浮かぶ風景を、声や楽器で一緒に音楽にする。
初期に重ねる声を工夫していた人の関心は、この時期には、声がほかの楽器と何を表せるかへも広がっていました。
「M」(2008年9月16日公演、2009年「AQUA NOME」の基となった演奏)
公式公開の「M」は、2008年9月16日のライブの一部です。
「M」のアルバム音源の基となった録音だと説明されており、翌年の発売と、そこへ至る舞台の時間がつながっています。
ライブで育てた音楽を残す、という本人の考え方が、制作の方法にも表れた作品でした。
若いバンドの音楽からも、刺激を受けたい
表現が広がった後も、ポップスやコーラスとの関係は続いていました。
2023年、GOOD BYE APRILとの共演を前にしたOTOTSUの対談で、EPOは若い世代から自分も刺激を受けたいと話しています。
相手の音楽には、自分と重なるところもあれば、自分の知らない音楽も感じたそうです。
共演では、双方のレパートリーを一緒に演奏する形が予定されていました。
EPOはリハーサルを経て、同じバンドの仲間と言えるような感覚も語っています。
同じ場で演奏しながら、相手の音楽も自分の中に取り入れる。
歌う人や演奏する人が変わることで、自分の歌にも新しい出会いを作っていました。
声が出ない時期を越え、歌えることへ向き合う
2024年末には、声との関係を別の形で見直す出来事が起こりました。
翌年の婦人公論の取材でEPOは、ウイルス感染による喉の炎症で、歌うどころか音を出すこともできなくなったと話しています。
先のことが不安になる中、声を専門に診る医師を紹介され、休養に専念できるようになりました。
三か月の静養に加え、専門医の指導のもとでストローを使った発声練習にも取り組んだといいます。
回復後について、EPOは、以前より歌える音域が広がり、歌う時の不安やストレスがなくなったと述べています。
日々の声の状態を自分で確かめてきた人の、回復への手応えでした。
オリジナルのキーで歌えていることも、幸せだと話しています。
声を重ねて使い方を知り、表したい音楽に合わせて声の役割を広げ、歌えない時には専門家の助けを借りた。
EPOの変遷を追うと、声の使い方と、その声で表したいものを、ともに考え続けた歩みが見えてきます。
公演の環境に合わせた声の強さや、コーラスでの声の役割は、EPOの歌い方で取り上げています。







コメント