吉幾三さんの歌声には、少し不思議なところがあります。
津軽弁で畳みかければ一言ごとに笑いが起きるのに、同じ声で「雪國」や「酒よ」を歌うと、急に一人の男の寂しさが立ち上がります。
その振れ幅は、コミックソング用と演歌用の声を別々に持っているからではありません。
芯の太さとかすれを残したまま、言葉を置く速さ、間、語尾の長さを変え、声の役柄を入れ替えているからです。
吉さんは幼い頃から民謡と浪曲に囲まれ、一方でビートルズ、ポール・アンカ、カントリー、各地の民族音楽を聴いてきました。
演歌の外まで広い耳を持ちながら、故郷の言葉は標準語へ直さなかった。
ここに、吉幾三さんの歌い方を理解する鍵があります。
吉幾三の声は、きれいさより「そこに人がいる感じ」が強い
吉幾三さんの声は、一般にハスキー、太い、芯があると評されます。
音楽家による声質評でも、かすれと厚みが同時にある珍しさが指摘されていました。
ハスキーというと、息が多く、輪郭の薄い声を想像する人もいるでしょう。
吉さんの場合は表面にざらつきがありながら、言葉の中心が消えません。
曇った窓の向こうに人影がぼやけるのではなく、傷のついた木の柱がしっかり立っているような声です。
この質感が、笑いにも悲しみにも効きます。
「俺ら東京さ行ぐだ」では、ぶっきらぼうな言葉が漫画の太い線のように見える。
「酒よ」では、同じざらつきが、誰にも見せたくない疲れに聞こえます。
どちらも、声を透明に磨き上げて別人になる歌ではありません。
生活感を消さないことが、吉幾三さんの歌の土台です。

津軽弁は飾りではなく、声を前へ運ぶリズムになっている
吉さんの父は民謡歌手、母は踊り手でした。
本人も小学生の頃から十代半ばまで家族と回り、人前で民謡を歌っています。
本人は当時、民謡が好きではなかったと振り返っていますが、言葉を拍へ乗せ、伸ばす場所と切る場所を身体で覚える時間にはなりました。
個人の楽曲分析では、吉さんの歌に民謡の節回しと、言葉に合わせて伸び縮みするリズムを感じるという見方が複数あります。
一方で「ラップ」「演歌」「ロカビリー」と、説明に使われるジャンル名は一致しません。
これは分析が失敗しているのではなく、一曲の中にいくつもの出発点があるためです。
「俺はぜったい!プレスリー」は、ギター一本と木魚という冗談のような録音から生まれました。
「俺ら東京さ行ぐだ」には、海外から届いた、言葉を話すように乗せるレコードの記憶が残っています。
その上で、声の足元には津軽の言葉があります。
標準語なら短く収まる箇所にも、方言には子音の引っ掛かりや母音の粘りが生まれます。
吉さんはそれを直すのではなく、太鼓のように使いました。
意味が完全には分からなくても調子が伝わるのは、方言が説明文ではなく音楽になっているからです。

「雪國」は高音自慢の歌ではなく、同じ言葉の温度を変える歌
「雪國」の音域をまとめた複数のカラオケ資料では、極端な超高音曲とはされていません。
むしろ難しいのは、同じ高さの近くにある言葉を、節回しと長い音で単調に聞かせないことだと説明されています。
初心者向けに言えば、階段を一気に駆け上がる歌ではなく、雪道を同じ歩幅で進みながら景色を変える歌です。
音が急激に高くならないぶん、どの言葉を強くし、どこで声を細くするかが目立ちます。
吉さんの太い声は、すべての音を大声にするためのものではありません。
長く伸ばす語尾の前で一度力をため、母音へ入ってから声を広げる。
声のざらつきがあるため、弱めた箇所まで感情が消えず、最後だけが不自然に浮きません。
高音の高さだけに注目すると、この巧さは見落とされます。
吉幾三さんから学べるのは、最高音を大きく当てる方法より、同じ高さにある言葉の温度を変える考え方です。
自分で曲を書く人だから、声より先に登場人物が決まっている
吉さんは演歌界では珍しく、自分の主要曲を自ら作詞・作曲してきたシンガーソングライターです。
声の特徴だけでは、笑いと涙の切り替えを十分に説明できません。
「酒よ」は、夜の街で酒を飲む地方出身の男性と話した記憶から生まれました。
「雪國」は宴会の即興歌に別の物語を与え、雪煙を上げる列車の景色へ作り替えた作品です。
「津軽平野」は、出稼ぎの駅と、旅で家を空ける父を待った幼少期の感覚を重ねています。
一方で本人は、歌の大半は架空だとも語っています。
女歌を書く時には、実際に使う言葉を人に尋ねる。
自分の体験をそのまま日記にするのではなく、他人の一言や街の景色を借りて、登場人物を作るのです。
だから歌う時も、「きれいな声を聞かせる」が最初の目的になりません。
郵便ポストにコートを掛けた男、北へ向かう女、故郷を出る若者が先にいる。
声は、その人が本当に話しそうな速度と息遣いを選ぶための道具になります。
笑わせる時ほど急ぎ、泣かせる時ほど言葉を待つ
吉幾三さんの代表曲を比べる時は、こぶしの回数より、言葉と次の言葉の間を見ると違いが分かりやすくなります。
「俺ら東京さ行ぐだ」では、情報を次々に追加し、聞き手が笑い終える前に次の景色を出します。
「と・も・子…」も、長いせりふがリズムを作り、最後に歌へ着地する構成です。
面白い言葉だけを抜き出しても、同じ勢いにはなりません。
対して「酒よ」では、説明を詰め込みません。
短い呼びかけの後に余白を作り、聞き手の記憶が入り込む場所を残します。
太い声を長く聞かせるのではなく、次の言葉を待てることが哀愁を作っています。
2019年の「TSUGARU」は、この二つを再び接続しました。
全編を津軽弁で進め、地元以外の人には意味が分からないかもしれないと承知したうえで公開しています。
言葉を丁寧に解説するより、分からなさそのものを楽しませた作品でした。
表面だけ真似すると、だみ声か大げさな訛りになりやすい
吉幾三さんらしさを出そうとして、最初から喉をこすり、語尾を大きく揺らすのはおすすめできません。
かすれは長年の声質と歌唱経験を含むもので、力を加えれば安全に再現できる効果ではないからです。
津軽弁も、音だけを誇張すると物まねに寄ります。
先に見るべきなのは、どの言葉を急ぎ、どこで待ち、誰に話している歌なのかです。
役柄が決まれば、声を不自然に濁らせなくても表情は変えられます。
「雪國」を聴く時は、長い音の大きさではなく、長い音へ入る直前の短い言葉に注目する。
「TSUGARU」では、一語ずつの意味より、まとまりごとに速度がどう変わるかを見る。
二曲を比べるだけで、吉さんが声色より時間の使い方で場面を変えていることが分かります。
喉に痛みや強いかすれが出る真似は、本人の表現へ近づく道ではありません。
声を傷めずに高音の押し上げを見直すなら、高音の張り上げを直す考え方も参考にしてください。
吉幾三の歌い方は、声を磨くより人を声の中へ入れている
吉幾三さんの歌声は、ハスキーで太く、民謡由来の節回しを持っています。
ただし、それだけなら「雪國」と「俺ら東京さ行ぐだ」が同じ人の代表曲になる理由までは説明できません。
最大の特徴は、声の中へ毎回別の人物を入れられることです。
田舎を飛び出す若者なら言葉を前へ転がし、酒場の男なら一言の後に黙る。
自分で曲を書くから、歌う前に誰がどこで話すのかを知っています。
笑いと涙をつないでいるのは、派手な発声技術の切り替えではありません。
かすれも方言も隠さず、言葉の時間だけを役柄に合わせて変えることです。
吉幾三さんの声が古い型に閉じないのは、歌声を完成品ではなく、人を演じるための生きた声として使い続けているからでしょう。
アイドル歌手・山岡英二から、コミックソング、本格演歌、令和の津軽弁ラップへどう移ったのかは、吉幾三さんの歌声の変遷で時代順にたどります。






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