石原裕次郎は、晩年になって「人生の歌」を求めました。
ただし、そこで描こうとしたのは、大スターとしての華やかな成功だけではありません。
家に帰り、台所で一杯飲む。
そんな一人の男の姿を歌にする提案を、裕次郎は受け入れたのです。
甘く囁く声は、映画で歌い始めた頃からそこにありました。
その声が、大人の恋を語り、憧れのジャズを歌い、やがて本人の人生を伝える声になっていく。
裕次郎の歌をたどると、何を自分の歌にしたいのかという選択が見えてきます。
「夜霧よ今夜も有難う」(1967年発表曲/公式音源)
最初から、甘く囁く声だった
1956年の映画『狂った果実』で、裕次郎はウクレレを手に「想い出」を歌っています。
ダンスパーティの場面に現れるその声を、歌謡曲の研究を続ける佐藤利明は、甘く囁くような歌声と捉えています。
レコードの初吹き込みは、同年6月26日の夜。
映画の撮影を終えたあと、テイチクのスタジオへ向かって録音したものでした。
映画の中で歌う青年と、レコードから届く歌手の声が、ほとんど同じ出発点にあったのです。

©日活/画像出典:日活
ジャズの歌手でもあったチェット・ベイカーの歌唱は、裕次郎にとって重要な出会いでした。
高校から大学にかけて、FENでジャズを聴きながら勉強していた裕次郎は、その放送でチェットの声に出会ったといいます。
惹かれたのは、トランペットを吹くような感覚で、そっと囁く歌い方でした。
歌声の甘さには、俳優としての姿だけでなく、若い頃に親しんだ音楽も重なっています。
洋楽を自分で歌うことも、早くから始めていました。
1958年のアルバム『裕ちゃんの週末旅行』には、「ラブレター」や「センチメンタル・リーズン」を収録。
映画主題歌で知られるようになった時期に、すでに洋楽のスタンダードも歌っていたのです。
「センチメンタル・リーズン」(『裕ちゃんの週末旅行』収録、1958年/再発盤の公式配信音源)
囁きが、大人の恋を語る表現になる
1964年5月発表の「俺はお前に弱いんだ」には、間奏に甘く囁くセリフがあります。
旋律を歌っていた声が、そこで相手に話しかける言葉になります。
佐藤利明は、この曲を裕次郎の歌が「ムード歌謡」となった節目に挙げています。
映画の人物を遠くから眺めるような距離とは違う、すぐそばで語られる恋の歌。
初期からあった囁きが、曲の途中のセリフとしても生かされるようになりました。
「俺はお前に弱いんだ」(1964年発表曲/公式音源)
1967年2月の「夜霧よ今夜も有難う」では、裕次郎と浜口庫之助が望んだ、都会的で粋な大人の歌が形になります。
日刊スポーツの制作関係者への取材は、二人がその方向で意気投合したと伝えています。
映画『夜霧よ今夜も有難う』の主題歌でありながら、レコードの歌としても、大人の恋や別れを引き受ける作品でした。
同じシングルのB面には、やはり浜口が手掛けた「粋な別れ」が入っています。
後に裕次郎を担当した高柳六郎は、こちらも単独で発売していたら大ヒットしたはずだと振り返りました。
一枚の両面に、大人の恋を歌う代表作が並んでいた。
若い頃からの甘い声が、歌謡曲の中で何を伝える声なのか、くっきりしてきた時期です。
「粋な別れ」(1967年発表曲/公式音源)
1974年、憧れのジャズを自分の声で歌う
ジャズへの憧れは、歌謡曲のヒットを重ねても続いていました。
『NOSTALGIA』は、チェットに捧げる作品として、二年をかけて企画したアルバムです。
1974年8月30日には、ロサンゼルスのRCAスタジオで録音が行われました。
編曲と指揮はベニー・カーター、監修はオリヴァー・ネルソン。
ジャズの演奏家たちと、映画音楽を中心とするスタンダードに取り組んでいます。

画像出典:写真掲載元
収録曲には「LOVE LETTERS」「AS TIME GOES BY」「MONA LISA」などが並び、本人のナレーションも入っています。
1958年にも歌っていた洋楽が、今度はアルバム一枚を通じて、好きな世界をじっくり伝える場になった。
デビュー当時に親しんだ音楽を、経験を積んだ歌手として形にし直す企画だったと捉えられます。
音楽ライターの桑原シローは、この作品での歌を、ジャズの演奏に包まれながらゆったりと漂うものと評しています。
その評価から伝わるのは、豪華な演奏陣の前でも、歌声の親密さが作品の魅力になっていることです。
裕次郎は、自分が憧れた歌のあり方を、時間と手間をかけて作品にしていました。
「ラヴ・レターズ」(『NOSTALGIA』収録/再発盤の公式配信音源)
晩年に望んだのは、自分の人生を歌うこと
1986年の夏、裕次郎はなかにし礼に、人生の歌を書いてほしいと依頼しました。
なかにしが提案したのは、ヒーローでもあり、一人の男でもある裕次郎を描くこと。
普通の男の人生の歌にしたいと話すと、本人も賛成したといいます。
長く付き合ってきた作詞家が思い浮かべたのは、家に帰って台所で酒を飲み、食器棚のガラスに映る自分と向き合う姿でした。
この曲のために、どんな作曲家を選ぶか。
日本レコード協会の会報が紹介した、なかにしと加藤登紀子の対談には、その相談も残っています。
裕次郎は、以前から自分と関わってきた人たちには思い入れがあり、新しいものを生みにくいと考えていました。
そこで求めたのは、清潔感のある歌。
その意向を受けて、加藤登紀子が選ばれたと、なかにしは説明しています。
大スターらしさを重ねるだけでは、自分の人生の歌にならない。
身近な姿を描く詞と、新しい作り手を迎えることが、ここで一つにつながります。
加藤は、届いた詞を読むと裕次郎の声で旋律が浮かび、短い時間で曲ができたと振り返っています。
詞の中の人物と、長く親しまれてきた本人の声が、作曲する側にも自然に結びついたのでしょう。
こうして生まれた「わが人生に悔いなし」を、裕次郎はとても気に入ったと伝えられています。
1987年2月にハワイで録音し、同年4月に発売。
映画の人物の恋や別れを歌ってきた声が、本人自身の日々を振り返る言葉を届けることになりました。
「わが人生に悔いなし」(1987年発表曲/公式音源)
若い頃からの甘い囁きには、年月とともに、歌う理由が重なっていきました。
恋を語るための声、好きなジャズの世界へ入っていく声、そして、自分の人生を語る声。
最後に選んだ等身大の歌にも、聴く人のそばへ言葉を届けようとする、裕次郎らしい歌の姿があります。
声の小ささと音程の確かさについては、石原裕次郎の歌い方で掘り下げています。







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