石原裕次郎の歌い方について、舘ひろしが強調したのは、小さく囁くように歌っても音程が揺れないことでした。
声を張らずに、歌としての確かさを保つ。
そこに、語りかけるような親密さが生まれます。
裕次郎の発声の特徴は、声の大きさと、音程の安定を分けて考えると捉えやすくなります。
「夜霧よ今夜も有難う」(1967年発表曲/公式音源)
小さな声の中にも、旋律がある
舘ひろしは裕次郎の歌を、小さく囁くような声でありながら、音程が揺れない歌唱として語っています。
2012年に裕次郎の曲をカバーした際にも、その歌い方を真似ると音程がうまく取れず、断念したと話しました。
声を小さくするだけでは、同じ歌にならなかったのです。
舘は歌を聴き直し、歌詞や旋律を自由に変えているところにも驚いていました。
音程を確かに保つことと、語るような自由さを出すことが、裕次郎の中では両立していた。
その確かさがあったからこそ、小さな声でも気負わない歌に感じられたのでしょう。
囁くように聞こえることと、旋律の音が曖昧になることは別です。
声を近く感じさせながら、曲の中で必要な高さへは届いている。
舘の証言が教えてくれるのは、裕次郎の親密さを真似るには、声量以外にも耳を向ける必要があるということです。
また、ここでいう音程のよさは、声をまったく揺らさずに歌うという意味ではありません。
旋律を外さない確かさがあり、その上で語尾を揺らしたり、言葉の進み方を変えたりする。
後に水森かおりが細かく聴き取った節回しにも、この二つが同時に現れています。
五木ひろしも、軽さと音程を見ていた
五木ひろしも、裕次郎は語るように軽く歌い、自分の世界を表す人だったと振り返っています。
あわせて、音程のよさにも触れ、俳優としてセリフを話すときも、声を張らずに伝わる人だったと語りました。
裕次郎の歌を歌うとき、五木が気をつけるのは、上手に歌おうとしすぎないことです。
言葉や旋律を知っていても、一生懸命さを前に出すと、裕次郎の雰囲気を壊してしまう。
歌唱力を見せるために強く歌うことと、裕次郎の軽さを保って歌うことの間に、難しさがあるのです。
五木は、カバーで元の曲の雰囲気を守ることも重視していました。
旋律を知っているからこそ、自由に手を加えたくなるところで、歌の持つ空気を優先する。
声の張りや技巧を増やすほどよくなるわけではないという話は、裕次郎の歌を歌う際の、表現の方向を示しています。
裕次郎の軽さは、感情が少ないという意味でもありません。
恋しさや別れの思いを、強い声で聴き手へ迫るのではなく、すぐそばで話すように感じさせる。
同じ言葉でも、どういう距離から届けるかで、歌の人物像は変わります。
「二人の世界」では、声を張る番と裏声の番を分ける
裕次郎の歌を、どこも同じ小ささで歌うものと考えると、もう一つの特徴を見落とします。
舘は本人から、「二人の世界」は一番で声を張り、二番ではファルセットを使うと教わったことを明かしています。
一曲の中でも、声の強さや種類を変えていたという、具体的な説明です。
一番と二番を同じ調子で繰り返すのではなく、後半では裏声の質感を使って、歌の表情を変える。
この説明では、低い声が印象的な裕次郎にも、裏声を表現として選ぶ場面があったことが分かります。
低さを強調するだけでは取り出せない、柔らかさの作り方です。
ただし、舘が教わったこの方針を、すべての録音や公演で一字一句同じように実行したと決めつけることはできません。
残された歌唱ごとの違いを確かめると、一曲の中の使い分けが、より具体的に見えてきます。
1967年5月の大阪リサイタルの同曲を、佐藤利明は甘くムーディーな歌唱として評しています。
親密で自然に聞こえる歌の内側にも、どの番をどう歌うかという選択がある。
舘が難しいと感じたのは、ただ力を抜くことだけではなく、こうした使い分けまで含む裕次郎の歌でした。

画像出典:写真掲載元
「二人の世界」の、番ごとに違う節回し
水森かおりは2017年、裕次郎の映像・音声との共演を振り返り、自身のブログに歌の細かな違いを記しています。
本番で流れる「二人の世界」の歌声は、聴いていたCDの歌声と、ニュアンスが少し違った。
そのため、実際に合わせる歌唱を何度も聴き、身体に覚えさせようとしたそうです。
水森が挙げたのは、一番と二番の節回しの違い、少し先へ進むように歌う箇所、ビブラートの長さや強弱でした。
同じ曲を知っていても、それだけでは相手の歌の流れに合わない。
声を重ねる準備をした歌手だからこそ、裕次郎の歌が均一な繰り返しではないことに気づいています。
とりわけ感心したのは、言葉と言葉の間の取り方だったといいます。
音を出している瞬間だけでなく、次の言葉までどれほど待つかも、語りかける印象を作る。
裕次郎の歌の自然さを考えるには、声の質感に加えて、こうした時間の使い方を見る必要があります。
小さく聞こえる声の内側に、ほかの歌手が丁寧に追いたくなるほどの変化がありました。
気負わず歌うことと、歌の細部を決めること
裕次郎の自然な歌は、録音の仕事をした人にはどう見えていたのでしょうか。
兄の石原慎太郎が、自分の作った曲の録音へ立ち会った際の回想には、短いリハーサルで本番へ進む弟の姿が描かれています。
慎太郎は、もう一度歌えばさらによくなると考え、歌詞の解釈や音を長めに保つ箇所についても注文をつけました。
二人は言い合いになり、最後には慎太郎自身が伴奏に合わせて歌うことになります。
録音した自分の声を聴くと、兄も笑うしかなく、裕次郎の先ほどの歌で決まったという話です。
冗談を交えた兄弟のやり取りですが、聴いている側が思う自然さを、自分の声で実現する難しさも伝わってきます。
ここには、裕次郎の歌を無条件に完璧とする見方とは違う、曲を作った人の耳もあります。
一つの音をどこまで保つか、言葉をどう解釈するかによって、同じ旋律でも印象は変わる。
裕次郎らしさは、その細部まで含めて一つの歌になったときに現れるのです。
小声だけでは再現できない親密さ
舘ひろしが語った音程の確かさ、五木ひろしが語った軽さ、舞台評に残る囁く甘さ。
これらを重ねると、裕次郎らしさが単なる声の低さや大きさでは説明できないことが分かります。
小さな声に旋律を保ち、力の入った印象を前に出さず、言葉を身近に届ける。
同業の歌手たちが難しさを感じたのも、この自然に聞こえる歌い方でした。
その声で歌う内容をどう広げたかは、石原裕次郎の歌唱変遷でたどっています。







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