美川憲一は、シャンソンの「生きる」を長年歌ってきました。
2026年には、今の自分だからこそ、この曲の重みを歌えると話しています。
親を思い、聴き手を励ましてきた歌の言葉が、今度は自分自身の実感になる。
そこには、若い頃にシャンソンへ導かれ、舞台で一曲を育ててきた時間があります。
この歌との関係をたどると、美川が年齢を重ねて歌うことの意味が見えてきます。
「生きる」(2013年のシングル発売時に公開されたMV)
低い声に、長く歌える可能性を見いだされた
シャンソンへの入り口は、「柳ヶ瀬ブルース」が世に出た頃にまでさかのぼります。
対談で出会った淡谷のり子は、美川の低い声をシャンソンに向いていると評価しました。
若い今は分からなくても、年齢を重ねれば良さが分かる。
ピアノ一台を伴奏に語れる歌を、長く歌っていくよう勧めたのです。
ここで示されたのは、当時のヒット曲の先にも、その声を生かせる道があるということでした。
「柳ヶ瀬ブルース」で知られた低音は、年齢を重ねた自分の言葉を届ける声にもなる。
後年の「生きる」につながる助言として、美川が大切に振り返っている出会いです。
淡谷の紹介で、越路吹雪とも親しくなりました。
2022年の取材では、日常の姿と、仕立ての良い衣装をまとって舞台で輝く姿の両方を知る越路を、自分の目標として挙げています。
歌を聴かせるだけでなく、舞台に立つ人として何を見せるか。
美川がシャンソンに惹かれた背景には、声を認めた淡谷と、憧れの舞台を見せた越路の存在がありました。
2005年の『NHK紅白歌合戦』では「愛の讃歌」を歌いました。
本人にとって、この曲を歌うことは夢だったといいます。
翌2006年にはシングルも発売しています。
代表曲とともに、敬愛する先輩から受け取ったシャンソンも、大きな舞台で届ける歌になっていったのです。
「愛の讃歌」(2006年シングル版・永田文夫訳詞/公式配信音源)
最初に「生きる」へ重ねたのは、母への思いだった
深緑夏代が歌う「生きる」を聴いたとき、美川の心に浮かんだのは母親でした。
いつか迎えが来るまで、諦めずに生きてほしい。
自分が母に伝えてきた思いと、歌の内容が重なったのです。
自分も歌いたいと願い、深緑に許しを求めました。
まだ若いからという深緑にお願いを重ね、最初は一度だけという許可を得て、銀座でのシャンソン・コンサートで歌いました。
その舞台には、深緑自身も石井好子とともに聴きに来ていたといいます。
歌を聴いた深緑から声に合うと認められ、続けて歌うことを許されたのです。
客席からも大きな反響があり、美川にとって心から大切な一曲になりました。
憧れた歌を一度歌う機会が、長く自分の声で育てていく曲へ変わった出来事でした。
2009年のアルバム『ドラマチック・シャンソン〜モンパルナスの肖像〜』にも、「生きる」は収録されています。
2013年のシングル発売より前から、舞台だけでなく録音にも残していた曲でした。
長年のレパートリーをシングルとして届け直したことにも、この歌への思いの強さが表れています。
親を思う歌から、世代を越えて届く歌へ
2013年の発売時、美川は年齢を重ねた今だからこそ、この曲を現実味のある歌にできると考えていました。
一方、コンサートで歌い続けるうちに、意外な反応にも出会っています。
自分よりずっと若い聴き手が、親のことを思い浮かべ、親を大切にしたいと感じたというのです。
それは、美川が初めてこの曲を聴いたときとよく似た受け止め方でした。
歌う側は、自分自身の実感として言葉を深めている。
聴く側には、まだ自分の老いや人生の終わりを思う年齢でなくても、大切な人の姿が浮かぶ。
「生きる」は、同じ年代の人同士で経験を分かち合うだけでなく、世代の違う人の心にも届く曲になっていました。
同年の「ドラマチックシャンソン2013」でも、美川はこの先ずっと歌い続けたいと話しています。
若い人にも何かを感じてもらえる歌として、もっと多くの人へ届けようとしていたのです。
2022年にも美川は、「生きる」を長く歌っていける大切な一曲として語っています。
コンサートの最後に歌えば涙する人がいて、入院中のがん患者が車いすで聴きに来たこともありました。
その人に客席からも励ましの拍手が送られ、歌の力を実感したといいます。
ただし、歌い続ければ舞台の怖さが消えるというわけではありませんでした。
同じ取材で、美川は年齢とともに緊張も増したと打ち明けています。
越路ほどの歌手も緊張して舞台に臨んでいた姿を見てきたからこそ、毎回の本番を軽く考えられない。
それでも、客席とのやりとりが次も歌う力になると話していました。
毎年の舞台で歌を学び直し、最後に「生きる」を置く
2024年の「ドラマチック・シャンソン」は、越路の生誕100年に寄せた構成でした。
「ろくでなし」「愛の讃歌」などを含む全19曲を歌い、最後に置かれたのが「生きる」です。
憧れの先輩の歌をたどる舞台を、自分が大切にしてきた一曲で結んでいました。
公演前の取材で美川は、年に一度の舞台だからこその準備の難しさにも触れています。
普段はあまり歌っていない楽曲を、あらためて自分で勉強し直す必要があったのです。
長いキャリアがあっても、以前覚えた歌をそのまま並べれば済むわけではない。
その年に届ける曲と向き合い直す作業が、華やかな舞台の後ろにありました。

画像出典:うたびと
病気のあとで、自分自身の歌として捉え直す
大きな転機となったのが、2025年の病気でした。
心臓の手術を受け、入院中にパーキンソン病も判明しました。
落ち込む時期を経て、コロッケとのジョイントコンサートで復帰しています。
客席から迎えられたときには、思わず涙がこぼれたといいます。
2013年の時点でも、本人はこの歌を自分の心の声として捉えていました。
それから年月が流れ、自分も病気を抱えながら歌う立場になりました。
復帰後の「生きる」には、それまで聴き手に届けてきた言葉に、自分の経験を重ねるという意味も生まれています。

画像出典:写真掲載元
2026年4月の『徹子の部屋』では、今の自分だからこそ曲の重みを歌えるとして「生きる」を披露しました。
同年8月の『鶴瓶のええ歌やなぁ』でも、病気を経験したことで以前より深く歌えるようになったと話しています。
長く歌ってきた曲を、本人自身が新しい気持ちで歌っているのです。
その歌に、笑福亭鶴瓶は心にしみると感激しました。
美川は、年齢を重ねるともっとしみるようになると応じています。
同じ歌でも、これからの人生を通して、さらに伝えられるものが増えていくと考えているのでしょう。
『鶴瓶のええ歌やなぁ』(2026年8月13日放送分/スタジオトーク)
母への思いから始まり、聴き手を励まし、自分の病気を経て歌詞を捉え直した「生きる」。
若い頃に淡谷から勧められた、年齢を重ねても語っていける歌が、いまの美川を支えています。
美川の変遷には、歌い続けることで一曲が自分に近づき、その言葉をまた新しい気持ちで客席へ返していく、という面白さがあります。
低音や裏声を曲ごとにどう使っているのかは、美川憲一の歌い方で取り上げています。







コメント