ボブ・ディランの歌い方|ざらつく声の奥で、言葉とリズムを動かす

1965年、スタジオでのボブ・ディラン(撮影:Don Hunstein) シンガー
1965年、スタジオでのボブ・ディラン(撮影:Don Hunstein)

ボブ・ディランの歌を聴くと、声のざらつきがまず耳に残るかもしれません。
けれど、その声をまねて荒く出すだけでは、ディランらしい歌には近づきません。
音を滑らせる場所、言葉を急ぐ場所、ふっと立ち止まる場所。
そうした小さな選択が、曲の中の人物や気持ちを動かしています。
歌と話し言葉の間を行き来する表現を、具体的な録音と本人の考えから見ていきます。

会話の抑揚を、歌の中へ持ち込む

ディランの声には、音符を一つずつ同じ形で並べる歌とは違う動きがあります。
音楽学者ラース・ベリルンドは、歌うことと話すことの境界にいるような表現だと説明しています。
話し言葉が持つ感情を使い、音の間を滑り、ブルースから受け継いだリズムを自分の形にする。
旋律を正しく追うかどうかだけでは、その工夫は見えにくいのです。

同じ短い言葉でも、人に問いかけるときと、突き放すときでは、抑揚や間が違います。
ディランの歌にも、そのような声の身振りがあります。
ざらつきの好き嫌いを急いで決める前に、声がどんな調子で言葉を渡しているかを追ってみる。
すると、難解な歌詞を読むだけでは届かなかった人物の気配が、歌の中から立ち上がります。

少ない音の動きでも、言葉は平らにならない

1965年、ピアノのそばのボブ・ディラン(撮影:Don Hunstein)
1965年、ピアノのそばのボブ・ディラン(撮影:Don Hunstein)。
画像出典:画像掲載元

1965年の録音「It’s Alright, Ma (I’m Only Bleeding)」では、ほぼ同じ高さを軸にしながら、弱い音節で声を下へ滑らせています。
リズムも均等ではなく、言葉を詰めたり、ギターの拍より少し先に声を置いたりする。
スティーヴン・リングズの分析が示すのは、限られた音の範囲の中にも多くの動かし方がある、ということです。

大きく旋律が上下しなければ、表情が少ないとは限りません。
同じ高さへ戻る声にも、言葉の入り方が違えば、ためらいにも勢いにも聴こえる余地があります。
ディランの歌を捉えるときには、音域の広さだけでなく、その音へどう入り、どう離れるかが手がかりになります。
細かな動きが、長い言葉の流れを単調にしないのです。

本人は、声の練習をするかと尋ねられたとき、リハーサルや曲を書いている間に歌っていると答えています。
歌詞を書き終わってから、その上へ声を付けるだけではない。
声に出しながら曲を作る時間があるのです。
「Like a Rolling Stone」をリズムの動きから説明した言葉とも、ここはつながります。

会話のような歌では、声の押し出し方も変わる

「These Foolish Things」や「When the World Was Young」の柔らかな歌を、なぜいつも聴かせないのか。
その問いにディランは、会話のような曲だから、言葉を乱暴に吐き出すべきではないと答えました。
曲の言葉に合わせて、強調や抑揚を内側へ向けるのです。

ディランがフランク・シナトラに見いだしていたのも、相手へ語りかける歌でした。
「Autumn Leaves」のような曲では、歌詞を信じ、そこにある愛や喪失を感じていなければ歌う意味がないと話しています。
落ち着いた声は、ただ音量を下げた結果ではありません。
言葉を誰かへ届けるための近さでもあります。

一方、「September of My Years」では、声が割れた箇所も直していません。
本人にとって、声が少し割れることは、音を外すことや和音を間違えることとは違う問題でした。

荒い声と柔らかな声を、別々の能力として切り離さなくてもよいのでしょう。
声を前へ押し出すのか、相手のそばへ置くのか。
同じ人の声でも、歌の言葉が求める距離に合わせて、印象を変えることができます。
ディランにとって、いつも同じ声色で歌うことが、自分らしさの条件ではありません。

相手の音を聴きながら、声の置き場所を決める

『Shadows in the Night』の録音では、ディランと演奏者たちはヘッドホンを使わず、同じ部屋で互いの音を聴いていました。
ギターが十分に聴こえなければ、ギタリストを本人の近くへ移す。
アル・シュミットは、まず部屋の中の位置と演奏の音量で釣り合いを取ったと話しています。
歌だけを別に大きく録ることから始めたのではありません。

伴奏が何をしているかを、その場で受け取れること。
それは、歌い手がどの強さで言葉を出すかを判断する土台になります。
自分の声だけを押し出せば、細かなやり取りは隠れてしまう。
この録音の親密さには、本人の声だけでなく、周りがその声を聴けるように演奏する関係も含まれています。

以前ディランと組んだダニエル・ラノワも、歌声と言葉の明瞭さを、音の中心に置きたいと話していました。
ギターのマイクへ歌が混ざりすぎないよう工夫し、後から言葉を変えたい場合にも対応できるようにしたといいます。
荒さを持つ声でも、何を歌っているかが埋もれてよいわけではない。
録音の側からも、声の存在と発音を生かす方法が探られています。

息の長さだけでなく、言葉を待たせる間がある

「I’ve Made Up My Mind to Give Myself to You」では、フレーズの途中で止まり、声の高さを悲しげに下げてから、何拍か待って言葉を再開する場面があります。
長い一息で最後までつなぐことだけが、歌を運ぶ方法ではありません。
いったん言葉が途切れる時間にも、感情を残しているのです。

この間は、歌詞を知らない聴き手にも届く表現です。
すぐに続きを言えないのか、それとも思いを確かめているのか。
声が止まることで、聴く側も次の言葉を待つようになります。
文字としては一続きの文でも、歌では立ち止まる場所によって、気持ちの重さが変わります。

昔の曲を、今の声で語り直す

『Shadow Kingdom』の「It’s All Over Now, Baby Blue」や「Tombstone Blues」は、半ば語るような歌へ組み直されています。
ドラムのない伴奏の中で、旧曲がゆっくりした別の姿を見せる。
原曲を覚えている人ほど、同じ言葉なのに違う歌のように感じられる例です。

『Shadow Kingdom』は、2021年に公開した映像作品を、2023年に音源として発表したものです。
若いころの録音を、音だけきれいにした再発売ではありません。
その時点の声で歌い直す作品だからこそ、歌手が言葉へ向ける距離の変化をたどれます。

ディランの歌い方は、声の荒さを一つの型にしたものではありません。
音を滑らせ、言葉を拍へ置き、間を残し、曲によって声の距離を変える。
その選択が、聴き慣れた歌詞にも新しい表情を与えています。
若い声から後年の歌まで、選択がどのように変わったかは、ボブ・ディランの歌唱変遷でたどっています。

シンガー人気投票。投票ページはこちら

こちらの記事もおすすめ

コメント

タイトルとURLをコピーしました