奥井亜紀の歌唱変遷|裏声の悩みから地声を学び、ライブでリズムをつかむまで

2025年「風夢記」インタビュー掲載の奥井亜紀 シンガー
2025年「風夢記」インタビュー掲載の奥井亜紀

奥井亜紀は、楽しくバンドと演奏しているのに、自分の声も歌詞も届かないと感じていた時期がありました。
その悩みから地声を学び、活動休止を挟んだ再出発では、好きな音楽なのに思い描いたように歌えない経験もしています。
「レスキュー」で望むリズムをつかんだのは、録音を終え、ライブで何度も歌った後でした。
声の出し方を増やし、その声を演奏の中でどう生かすかを覚えていく。
奥井の歩みには、曲を発表した後にも続く学びがあります。

1990年代、バンドの中で声と言葉を届けるために

1993年のデビュー曲「銀のスプーンで」は、奥井が初めて作った曲でした。
オーディションには落ちたものの、そのテープを聴いたディレクターが曲に関心を寄せ、やり取りが始まったといいます。
自分の言葉をメロディにすることが、歌い手になる道を開きました。

ただ、曲を作ることと、一人の歌手として客席の前に立つことには違う経験が要りました。
コーラス部や大学の演劇で舞台には慣れていた一方、自分がマイクを持ち、バンドを背に歌う経験はなかったそうです。
デビューから初めての単独公演までの約半年、各地のキャンペーンで弾き語りをし、話すことで鍛えられたと振り返っています。

声が聞こえなければ、時間をかけて書いた歌詞も届きません。
後に奥井がバンド編成で感じたのは、その切実な問題でした。
当時は裏声を多く使い、本人には声が楽器の音に溶けてしまうように感じられていたのです。
一緒に演奏する楽しさがあっても、自分の言葉が伝わらないことには納得できませんでした。

1998年に活動を休止する前の約2年間、奥井は事務所で地声を出すボイストレーニングなどに取り組んでいます。
長く組んできたディレクターと離れ、自分で作った曲を判断してくれる人もいなくなった時期でした。
事務所が次の活動を支えながら待ってくれる中で、新しい声の出し方を学び、曲作りを続けていたのです。

リリースという形には残らなくても、それまで作れなかった曲を自分で作れたという実感がありました。
休止を決めた頃には、作る楽しさを知ったからこそ、音楽を仕事にし続けなくてもよいのでは、と考えたそうです。
発声を学んだ時間は、そのまま次の発売へ一直線につながったわけではありませんでした。

再びスタジオへ戻り、「大樹」でリズムの壁に出会う

2000年代半ばのmomentインタビュー掲載の奥井亜紀
2000年代半ばのmomentインタビュー掲載の奥井亜紀。
画像出典:写真掲載元

休んでいる間、奥井は一人で曲を作り、歌うだけでは物足りないと感じるようになりました。
このメロディはいい、と言ったときに、そうだねと応じてくれる人がいたこと。
その喜びに、音楽の現場から離れて気づいたと話しています。

再びスタジオへ入るきっかけになったのが、菅野よう子から届いた「∀ガンダム」の歌への誘いでした。
そのエンディング曲として歌ったのが「月の繭」です。
オーディションで久しぶりに歌えたこと自体が楽しく、本番の録音を経て、自分の声を必要としてくれる人たちと一緒にいたいと思ったそうです。
自作曲を発表することだけでなく、歌うことで誰かの作品に加われる喜びが、再出発を支えました。

2001年のシングル「大樹」では、コテツ&ヤンシーと制作を共にします。
ところが、自分がやりたかった方向の音楽なのに、そのリズムに思うように応じられませんでした。
奥井は、洋楽を聴いて育った彼らとの感覚の違いに驚いたと振り返っています。

好きな音楽の方向が定まっていても、そのリズムに応じた歌い方がすぐにできるとは限りません。
本人は、望む髪型と自分に似合う髪型が違うように、やりたいことと、できることの違いを知ったと説明しています。
再び歌い始める作品は、自分の足りないものを知る機会にもなりました。

地声のトレーニングでは、歌を届けるための声の出し方が課題でした。
「大樹」では、そこにリズムの捉え方という課題が加わっています。
出した声を、共演者の音楽の中でどう運ぶかを学ぶ段階へ進んだのです。

少ない編成で歌い直し、「レスキュー」をライブで育てる

2000年代半ばのmomentインタビュー掲載の奥井亜紀
2000年代半ばのmomentインタビュー掲載の奥井亜紀。
画像出典:写真掲載元

2003年のセルフカバー集「COCOROTO」には、これからも長く歌い、少ない楽器でも届けられる歌を残したいという思いがありました。
続く「うたの素 壱巻」では、ギターの宮脇てつやと二人で録音しています。
すでに発表した曲も入れたのは、二人でステージを重ねるうちに、前の録音よりよくなっていく実感があったからでした。

歌い直すことは、過去の曲をまとめるためだけではありません。
演奏の相手や編成が変わり、一緒に歌を育てた結果をもう一度残す意味がありました。
録音の後にも曲が変わるという経験は、次のアルバムでも続いています。

2004年11月発売のアルバム「cyclong」には、「レスキュー」が収められています。
制作では、長田進や集まった演奏家が、楽しみながら音を作る姿にも刺激を受けました。
「レスキュー」のソロ部分で何か入れるかと聞かれ、奥井がコーラスは思いつかないと答えると、長田は自分が音を入れると言ったそうです。
まず試して曲へ加わる、その軽やかさは、自分にはなかった感覚でした。

長田の姿勢は、録音に向かう気持ちも変えました。
奥井は、疲れると、こんなことではいけないと自分を責めるほうへ考えが向いていたそうです。
しかし、楽しんで音楽を作る長田を見て、歌えない日は休むことも含め、楽しく取り組める状態を大切にしたいと思うようになりました。
できなさを抱えたまま自分を追い込む以外の、音楽との付き合い方を知ったのです。

一方で、この曲の歌には、録音時につかみきれなかった課題が残りました。
その後、ライブで何度も歌ううちに、リズムがわかってきたそうです。
リズムに乗りながら、意図的にそこから外して歌う感覚もつかみ、思い描いていたものに近い表現ができるようになりました。
同時に、自分は感情を込めて歌いすぎるところがある、とも気づいています。

「レスキュー」――2017年11月25日、TSUTAYA O-WESTでのライブ

歌詞へ思いを込めることと、その思いを音楽の流れに乗せること。
奥井は、実際に歌い続ける中で、その関係をつかみ直しました。
「大樹」で感じた、好きな音楽なのにできないという距離を、「レスキュー」では時間をかけて縮めていたのです。

この頃には、自分では価値が分からなかった表現を、周囲がよいと受け取ることにも気づいたといいます。
自分にとって当たり前のものが、他の人には新鮮に映る。
できないことを学ぶだけでなく、すでに持っているものを、別の耳から知る経験も重なっていました。

「風夢記」に続く、目の前の人へ歌う時間

ライブから歌を育てる活動は、その後も続きます。
2025年の「風夢記」は、「うたの素」のアンコールで自ら弾き語ることを目指して作った曲を集めたアルバムでした。
録音作品からステージへ進むだけでなく、まず客席へ届ける歌が、新しいアルバムになっています。

公式サイトの取材記事で、兼田達矢は「北風トランペット」の静かな歌い方に注目しています。
強い決意を大声で示すのではなく、その思いを受け取ってほしい相手へ届ける歌だと捉えました。
さらに、目の前の人へ歌うことが、作品の奥行きや強さにつながっていると評しています。

かつては、バンドの中で言葉が届かないことが、発声を学ぶ理由になりました。
その後は演奏家とリズムを探り、歌い続けた曲を録り直し、客席を前に新しい曲も生み出してきました。
奥井亜紀の歌の変遷には、自分の声を、曲や演奏相手、聴いてくれる人との間で育てていく時間があります。
裏声と地声、リズムや音の扱いについては、奥井亜紀の歌い方で取り上げています。

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