土岐麻子は、声を楽器のようにサウンドへ溶かす姿勢を、歌い始めてから変えていないと話しています。
その一方で、言葉を届ける意識や、歌うときの構えは変わっていきました。
音の中で目立ちすぎないことを考えていた歌い手が、どのように、聴く人へ開かれた歌を選ぶようになったのか。
CMの仕事、ラブソングへの挑戦、ジャズの録音など、本人が転機として語った経験をたどります。
Cymbals「RALLY」(『That’s Entertainment』収録曲、2000年/MV)
歌とバンドの音が、離れて聞こえるのが嫌だった
声をサウンドの一部として考える姿勢には、ボーカルを担当する前の経験がありました。
2017年のMusicVoiceの取材で、土岐は、学生時代にギターを弾いていたバンドで、歌と演奏が分かれて聞こえることに不満を持っていたと振り返っています。
当時の歌い手は土岐自身ではありません。
歌も楽器も一緒に聞こえてほしいという、演奏する側からの感覚でした。
その後、Cymbalsで歌っていたころには、ボーカルを楽器のように捉え、前に出すぎないよう心がけていました。
2007年のCDJournalの取材では、歌っている言葉がわからなくてもかまわないと考えていたことを話しています。
音楽の中で、声がどのように混ざるかを大事にしていたのです。
『TALKIN’』で、言葉の置き方にも意識が向く
2004年には、父であるサックス奏者の土岐英史との共同プロデュースによる『STANDARDS ~土岐麻子ジャズを歌う~』でソロ活動を始めました。
ジャズのカバーに続き、2005年にはオリジナル作品『Debut』も発表しています。
ソロで歌う曲の幅が広がる中、2007年の『TALKIN’』では、言葉をはっきり聞かせたいという考えが生まれていました。
先のCDJournalの取材では、より多くの人に聴いてもらいたいという気持ちを、歌詞にも、言葉を旋律にどう割り振るかにも反映したと説明しています。
音色だけを整えるのではなく、歌の中で何を言っているのかが届くようにする。
声をサウンドへなじませることに、言葉を届けるための工夫が加わった時期です。
「ファンタジア」(『TALKIN’』収録曲、2007年/MV)
「How Beautiful」で、曲と自分の距離が近づく
2008年の「How Beautiful」では、ラブソングへの向き合い方も変わりました。
2014年の音楽ナタリーの取材で、土岐は、以前は曲と歌い手の距離を遠く保つことを好み、熱のある音楽を苦手にしていたと話しています。
友人に歌へ共感できないと言われたことから、自分に合うラブソングを作ろうと考えたそうです。
多くの人に届く形を探すうち、歌にも熱が生まれたと振り返っています。
言葉を聞き取りやすくするだけでなく、その言葉を自分がどう受け止めて歌うかも変わる。
「How Beautiful」は、歌う内容と歌い手の距離が動いた、具体的な一曲でした。
「How Beautiful」(2008年/公式配信音源)
CMの仕事を通して、自分の声を聴き直す
『TOUCH』を発表したころの取材では、また別の発見を語っています。
2008年末発行の『bounce』に掲載され、2009年に公開されたインタビューです。
土岐は、CMの仕事が増えたことで、自分の声を客観的に聴けるようになったのかもしれないと話しました。
CMでは、先にある映像の世界へ歌を合わせることがあります。
その中で、思ったより暗く聞こえる声でもあり、はじけるように歌っても成立する声でもあると気づいたそうです。
自分の歌を映像と一緒に受け止める仕事が、本人の持つ声のイメージを広げる機会になっていました。
『TOUCH』では、わかりやすい言葉やメロディーで、聴く人と同じ景色を共有したいと考えていました。
曲を依頼するときにも、伴奏に繰り返し現れるフレーズが明確なものを求めています。
声のことだけを考えるのではなく、その声で届く曲を、作り手と一緒に用意していたのです。
以前は普段の生活と歌うことを分け、歌うときには身構えていました。
それが一つにつながり、リラックスして歌えるようになったとも話しています。
歌の内容を身近にする変化とともに、歌う行為そのものも、日常から切り離されたものではなくなっていきました。

画像出典:写真掲載元
「Gift」で、ポップな表現への遠慮が薄れる
CMから自身の曲へ育った例が、2011年の「Gift ~あなたはマドンナ~」です。
EPOが作詞・作曲したCM曲を気に入り、自分の作品として発売したいと交渉したと、土岐は2017年の取材で説明しています。
憧れていたEPOの曲を歌う機会でもありました。
この曲との出会いによって、それまで感じていたポップな表現や編曲への遠慮が薄れたそうです。
親しみやすさのある歌を、自分が歌ってもよいと思えるようになる。
本人はこれを転機の一つに挙げ、細かな趣味を生かした音楽と、広く届くポップスの両方を探るようになったと話しています。
「Gift ~あなたはマドンナ~」(2011年/MV)
先に決めすぎず、その場の演奏に応じる
2014年の『STANDARDS in a sentimental mood ~土岐麻子ジャズを歌う~』では、歌うときの緊張が薄れたことを、以前との違いに挙げています。
頭ではわかっていたことを、実際の録音でもできたかもしれないという、本人なりの手応えでした。
土岐の説明では、慣れ親しんだポップスの制作は、編曲を詰め、歌を部分ごとに録りながら、時間をかけて形にする作業です。
一方、このジャズの録音では、その場で起こる演奏に応じて、歌のニュアンスを決めていきます。
準備した歌い方を当てはめようとする構えがほどけ、目の前の音を落ち着いて受け止められたと感じていたのです。
「In a Sentimental Mood」(『STANDARDS in a sentimental mood』収録曲、2014年/公式配信音源)
長く歌ってきても、新しい曲には迷いがある
歌う構えが柔らかくなっても、どの曲にも同じように対応できるわけではありません。
2024年の『Lonely Ghost』に収めた「August」では、歌詞を書くことは楽しめた一方、どのように歌うかには悩んだと、発売時の公式インタビューで話しています。

画像出典:BARKS
それまでにも、ボサノバ調の抑えたラテンの曲は歌っていました。
ただ、「August」のような情熱的なフレーズを持つ曲はあまり経験がなく、歌のテンションを調整するのが難しかったそうです。
同じラテンの要素がある曲でも、求められる熱の加減は違う。
長い経験の後にも、新しい曲を前に、声の置き方を探し直していました。
「August」(『Lonely Ghost』収録曲、2024年/公式配信音源)
2017年に土岐が、変わらないと話していたのは、声をサウンドの一音として扱う姿勢でした。
言葉を届け、歌う内容に近づき、演奏の瞬間へ応じていく。
その変化は、音楽に溶け込む声の持ち味を生かしながら、歌える表現を広げていく歩みだったと考えられます。
声の音色や、発音、重ね録りの工夫については、土岐麻子の歌い方で扱っています。







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