山崎ハコの歌声はどう変わった?17歳のデモから50周年まで

山崎ハコの歌声の変遷 シンガー

山崎ハコさんの50年は、若い頃の暗い声が少しずつ穏やかになったという単純な物語ではありません。
17歳で録ったデモ、18歳の鮮烈なデビュー、演奏者と一緒に録る方法への転換、作られた「暗い歌手」像との距離、そして初期作の海外再評価が一本につながっています。

変わったのは声の年齢だけではなく、誰のために、どこで、どのように歌うかでした。

1974〜1975年|17歳のデモには、完成前ではなく原型が入っていた

1974年、山崎さんは17歳でデモ音源を残しました。
翌1975年10月、18歳でアルバム『飛・び・ま・す』からデビューします。

普通なら、デモは完成盤より未熟な資料として扱われます。
しかし50周年盤に収められた録音は、若い声の珍しさ以上に、後の山崎ハコがすでに始まっていたことを示します。

故郷を離れた人物、町の片隅、届かない場所への視線。
十代の生活から生まれた歌なのに、同世代の青春を明るく代弁する方向へは進みませんでした。

本人は後年、16、17歳で『望郷』を書いたと振り返っています。
年齢より老成していたというだけではありません。
目の前の出来事を日記にするより、それを景色へ変えて自分から少し離して見る書き方を、すでに持っていたのです。

1975年|初めての大舞台で、静かな新人ではなく事件になった

デビューアルバム「飛・び・ま・す」

デビュー直前の1975年9月26日、横浜市教育文化センターで初のリサイタルが開かれました。
50周年を機に発見された公演音源には、第1部、第2部、アンコールまで14曲が残っています。

この時点で山崎さんは、ギター一本の小さな独白だけを歌っていたわけではありません。
佐藤準、竹中尚人、笛吹利明、小原礼、村上ポンタ秀一ら、後の音楽史で大きな名前になる演奏者たちと作品を作っています。

『飛・び・ま・す』にも、フォーク、ロック、ジャズ、歌謡曲の感覚が混ざりました。
海外で『さすらい』が聞かれ、作品がオルタナティブな音楽として再発見されたのは、後から別の色を足したからではありません。
最初から一つのジャンルへ収まりきらなかったのです。

1976年|『綱渡り』で歌声をブースから演奏の中へ戻した

最初のアルバムの録音では、山崎さんは演奏者と離れた歌用のブースに入りました。
ヘッドホンから聞こえる演奏へ声を重ねても、自宅で歌う時のように自分がそこにいる感じを持てなかったと振り返っています。

2枚目の『綱渡り』では、その違和感を制作方法から変えます。
演奏者と同じ空間で、歌も楽器も同時に録る「同録」です。

一人が間違えれば全員で最初からやり直します。
声だけを後で直せない緊張の中で、山崎さんは歌を完成品へ加工するのではなく、その場で起きた演奏として残そうとしました。

デビューからわずか7か月後の変化です。
新人が制作陣の方法へ従う段階から、自分が生きている歌を録るには何が必要かを主張する段階へ進みました。

1970年代後半〜1980年代|大きなホールと「暗い歌手」像が声を囲んだ

デビュー後の山崎さんは、大きなホールを各地で回りました。
体力的には厳しく、一公演の前後に移動と休息の日が必要になるほどだったと語っています。

同時に、本人の外側では「暗い歌手」という像が強くなりました。
笑顔の写真は選ばれず、うつむく姿が求められ、明るい人物として紹介しない方針まであったといいます。

皮肉なのは、舞台の本人が弱々しく閉じこもっていたわけではないことです。
激しく叫ぶ歌もあり、民謡や演歌の節回しも、ロックの衝動も持っていました。

ところが1980年代に明るさや軽快さが歓迎されると、山崎ハコという名前だけが時代の「暗さ」を背負う記号になっていきます。
歌が変わる前に、聞かれ方の方が狭くなった時期でした。

1990年代〜2000年代|ライブハウスで、決められた歌手像から離れた

大きなホールの仕事が減り、事務所の状況も変わると、山崎さんはライブハウスで一から歌う必要に迫られました。
それまで約15年でライブハウス経験はごくわずかだったと本人は話しています。

ホールでは曲名を告げて次へ進めても、ライブハウスでは客席との距離が近く、話し方も曲の流れも自分で作らなければなりません。
憂歌団との共演を学びの場にし、ロックバンドへ加わり、時にはコーラスでも歌わせてほしいと頼みました。

この時期の変化は、声を洗練することではなく、歌える場所を自分で作ることです。
事務所が用意した暗い額縁の中で歌う人物から、異なる音楽家や俳優と交わり、その日の客席へ直接歌を置く人物へ変わりました。

カルメン・マキさんの歌唱変遷にも、時代が与えたイメージから離れ、ロック、舞台、詩の間を移動した歩みがあります。
二人を並べると、女性歌手が一つのジャンル名で記憶されることと、本人が実際に続けた音楽の広さとの差が見えてきます。

2009年|35周年で、昔の歌を懐メロではなく現在形へ戻した

35周年のアルバム『未・発・表』では、代表曲を現在の声で録り直し、長くライブだけで歌ってきた曲も収めました。
ジャケットはデビュー作と同じ葉山の海を意識し、曲順、演奏者、デザインまで山崎さん自身が関わっています。

同じ砂浜へ戻ることは、若い頃を再現する企画ではありませんでした。
35年後の自分が出発点へ立てるかを確かめ、自分の好きな音で初期の歌を取り戻す作業です。

この頃、山崎さんは「暗い」という評価も自分の歌の色として受け入れるようになりました。
否定して明るい歌手へ変身するのではなく、外から貼られた像と、自分が守りたい作品の暗さを分けられるようになったのです。

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2010〜2024年|安田裕美との音楽を失い、一人で歌う意味が変わった

長く演奏と生活を共にしたギタリスト、安田裕美さんの存在は、山崎さんの歌の呼吸を支えました。
2012年のアルバム『縁』は二人の共同作業として高く評価され、日本レコード大賞の優秀アルバム賞を受賞しています。

2020年に安田さんが亡くなると、山崎さんは長年あったギターとの会話を失いました。
それでも舞台をやめず、一人で全曲を歌う公演へ向かいます。

聞き手の記録には、初期のフォークという先入観がライブで崩れ、ブルースやオルタナティブな広さに気づいた体験が残っています。
過去の曲を静かに保存するのではなく、一人になった現在の身体で再び動かしたからこそ、初期作と同時代の新しい歌がつながりました。

2024年には50周年記念アルバム『元気かい』を発表します。
題名は明るい挨拶ですが、痛みを消した作品ではありません。
長く聞いてきた人へ、そして自分自身へ、まだ歌っていることを知らせる言葉になりました。

2025〜2026年|50周年は回顧ではなく、録音された瞬間の再始動になった

50周年の舞台で歌う山崎ハコ

50周年には『飛・び・ま・す』『綱渡り』のリマスター盤、1975年のデビューライブ、1976年のリリースライブが相次いで世に出ました。
山崎さん本人も監修とマスタリングに参加しています。

ここで起きたのは、昔の有名曲をまとめ直しただけの周年企画ではありません。
当時のライブ全編や17歳のデモが並び、スタジオ盤の外にあった歌声まで現在の聞き手へ届くようになりました。

さらに初期作はスイスのレーベルから再発され、海外でも評価が広がっています。
フォーク歌手という国内の古い分類を知らない聞き手が、ロック、サイケデリック、ブルースを含む音楽として受け取ったことで、デビュー時の広さが50年後に見えやすくなりました。

現在の山崎さんは、昔の曲も原曲キーで歌い、必要以上に遅くしないことを意識しています。
若い声を復元するのではなく、曲を今日の速度で前へ進ませる。
50周年の歌声は、過去へ戻る声ではなく、過去の録音を連れて現在を走る声です。

詳しい歌い方の核は、山崎ハコさんの歌い方・歌唱力で、情景、人物、同録という三つの面から説明しています。

山崎ハコの歌唱変遷は、暗いイメージから歌を取り戻す50年

17歳のデモには、故郷の景色を自分から少し離して見る視線がありました。
18歳のデビューではジャンルを越える演奏者と出会い、19歳の『綱渡り』では歌を演奏の中へ戻すため、同録を選びます。

その後、世間が作った「暗い歌手」の像に囲まれ、大ホールからライブハウスへ場所が変わりました。
山崎さんはそこで歌を小さくしたのではなく、共演者と客席を自分で選び直しました。

35周年には初期曲を現在の声で取り戻し、50周年にはデモとライブまで含めて当時の瞬間を開き直しています。
変わらなかったのは、歌う時にしか見えない景色を追うことです。
変わったのは、その景色を見せる場所も方法も、自分で引き受けるようになったことでした。

浅川マキさんの歌唱変遷もあわせて読むと、同じ「暗い」と呼ばれた女性歌手が、別々の方法で時代の分類を越えたことが分かります。

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