春猿火の歌唱はどう変わった?ラップ未経験の出発点から『心獣』『RULE THE WORLD』まで

春猿火の公式アーティストビジュアル シンガー

ラップをしたことがなかった人が、ラップシンガーとしてデビューする。
春猿火の出発点には、いまの堂々としたイメージからは想像しにくい戸惑いがありました。
曲を作るたかやんの仮歌を必死に覚え、経験のない歌い方にためらい、ときにはライブの息継ぎさえスタッフに相談する。
そうした試行錯誤から、自分で歌い方を提案し、仮想世界の物語にも入っていく表現が育ちました。

2019年の「逆転」から、2024年の『心獣』、2025年の『RULE THE WORLD』へ。
その歩みをたどると、強い声の持ち主が、初めから強気に歌えていたわけではないことが見えてきます。

2019~2021年|たかやんの仮歌から、自分のフロウを探す

活動前の春猿火が親しんでいたのは、ボカロ曲やアニメソング、J-POP、邦楽ロックでした。
ラップやヒップホップは、その中心にはありません。
EGOISTのライブを通じてバーチャルな姿で音楽活動をする道を知っていた一方、ラップを担当することには、知識のない自分がやってよいのかという不安を抱えていました。

そこで最初の手掛かりになったのが、たかやんの仮歌です。
言葉をリズムにどう乗せるかを覚えるうちに、春猿火としてのフロウが形になっていったと、本人は2021年の取材で説明しています。
たかやんも、自分の歌い方をそのまま再現させるだけでなく、春猿火の解釈で自由に作るよう促しました。
手本を覚えることと、自分の形を探すことが、初期の録音では並行していたのです。

「Lift Up」では、慣れた歌い方から踏み出すことが難題になりました。
たかやんが求めたのは、いつもの自分を越えるほど振り切った歌い方。
経験のない表現にためらいましたが、もっと大胆にやってよいと背中を押され、思い切って試したといいます。
2021年6月には、この曲で知らなかった声を引き出され、難しかった表現も楽しめるようになったと振り返っています。

「Lift Up」公式MV(2020年公開)。

対して「オオゴト」では、歌とラップを続けながら息を継ぐ場所が問題になりました。
本人によると、間奏を挟まず歌い続けた先に高速のラップがあり、最初は自分にできるのか疑ったそうです。
録音で完成させても、ライブでは別の準備が必要になる。
どこで息を継ぐかをスタッフに相談したという話には、曲を覚えてから実際の舞台へ持っていくまでの苦労が表れています。

「オオゴト」公式MV(2020年公開)。

2020年からの「春猿火自由律」では、短い歌詞やキーワードを本人が考え、たかやんが整えたりフロウを付けたりする試みも始まりました。
まだ一人で一曲を書き上げる段階ではないものの、2021年には歌やラップのアイデアを自分から出せるようになったと話しています。
知らない表現を教わるだけでなく、自分の言葉や案を制作へ返せるようになったことが、最初の大きな変化でした。

『心眼』の頃|弱さを打ち明けると、誰かを励ます歌になった

春猿火の1stアルバム 心眼 公式ジャケット
春猿火『心眼』の公式ジャケット。
画像出典:心眼の公式作品ページ

「台風の眼」では、たかやんが春猿火を取材し、世の中やリスナーへの思いを聞いてから曲を作りました。
春猿火は、自分の暗かった経験も打ち明けたといいます。
出来上がったのは、個人的な苦しさを残しながら、聴く人にも寄り添う歌でした。
本人の話が、本人だけのための言葉に閉じず、誰かの背中を押す言葉へ変わったのです。

「台風の眼」公式MV(2020年公開)。

2021年の「覚醒 feat.さなり」では、その言葉を別の歌い手と分け合います。
同世代のさなりと一緒に録音したものの、二人とも話しかけるのが得意ではなく、最初から打ち解けた現場だったわけではありません。
それでも、男性と歌うことで生まれる違いや、二人で言葉を伝える強さを発見したと、春猿火は振り返りました。

本人が特に考えを深めたのは、相手へ生きる理由を問いかけ、答えが返ってくる掛け合いでした。
周囲の人を大切にするには、自分自身も大切にする必要がある。
そう受け取った春猿火は、完成後も聴き手としてこの曲に向き合い、二人で歌うからこそ思いが広がると話しています。
曲を歌い切るだけでなく、相手の言葉を受けて意味を考える経験にもなっていました。

こうした初期曲が収まったのが、2021年の1stアルバム『心眼』です。
同年8月の初ワンマン「シャーマニズム」では、完成した録音を届けるときとは違い、そのままの声と自分自身を見せる緊張がありました。
それでも終演後には、歌も伝えたかったことも届けられたと語っています。
内側に隠していた自分を歌で解放するという考えが、作品に加えて舞台の上でも形になった時期です。

「Lift Up」公式ライブ映像(2021年「シャーマニズム」、2022年公開)。

2024年|『心獣』で、弱かった自分と強くなった自分が並ぶ

2ndアルバム『心獣』では、たかやんが制作チームを離れる節目を迎え、煮ル果実や柊キライら多くの作家と組みました。
春猿火が振り返って挙げたテーマは、過去の弱い自分と、強さを得た自分の共存です。
発売した瞬間だけでなく、時間がたつほど自分にとって大きな転機だったと感じる作品になりました。

春猿火の2ndアルバム 心獣 公式ジャケット
春猿火『心獣』の公式ジャケット。
画像出典:心獣の公式作品ページ

その中心にあるのが「中間地点」です。
作詞を担当したたかやんは、これまでの春猿火の作品や本人のことを歌詞に織り込み、最後まで弱さに寄り添っていました。
曲を受け取った春猿火は涙を流し、自分にとっての再出発の歌だと受け止めています。
初期に自分の思いを聞き取ってもらった関係が、歩いてきた時間ごと受け止めてもらう関係へ深まっていたのです。

アルバムの冒頭には、uno blaqloが手掛けた「台風の子」があります。
2025年のPANORAの取材では、聞き手がこの曲を、弱気な自分に発破をかける歌として挙げました。
「中間地点」の受容と、「台風の子」の鼓舞。
受け止めてもらった弱さを抱えて、次は自分を励ましながら前へ出る。
この二曲には、本人が語るアルバムの二つの面が表れています。

「台風の子」公式MV(2023年公開、2024年『心獣』収録)。

2024年の「シャーマニズムIII」を終えると、本人は新しい春猿火として歌っていこうと気持ちを切り替え、その姿をKAMITSUBAKI FES ’24でも示したいと考えました。
歌とラップの技術に以前との差を感じる一方、曲が求める水準も上がっているといいます。
上達して楽になるというより、できることが増えたぶん、新曲がさらに難しい課題を持ってくる時期でした。

「巫女」「META」公式ライブ映像(2024年KAMITSUBAKI FES ’24、2025年公開)。

「META」から、仮想世界で遊ぶ『RULE THE WORLD』へ

2024年4月の「シャーマニズムIII」で初披露された「META」は、その変化を象徴する曲です。
PABLOが作曲・編曲し、弥之助が詞を書いた重いロックで、同年10月に配信とMV公開が続きました。
春猿火は、突然こうした曲を出せば驚かれることを承知しており、その反応を狙っていたと明かしています。

ただし、本人がロック路線への変更を明確に注文していたわけではありません。
スタッフが声に合うと考えて曲を作り、本人もロックが得意でしっくりくると感じる。
制作側との共通理解のなかで、作風が強まっていきました。
初期の「Lift Up」で未知の表現にためらった人が、ここでは聴き手を驚かせる変化を楽しもうとしています。

「META」公式MV(2024年公開)。

「META」を核に、ディレクターが仮想世界をテーマにしたアルバムを提案しました。
それが2025年2月のミニアルバム『RULE THE WORLD』です。
それまでの本人の経験や成長を中心とする作品から、遊び心を持って別の世界へ入る作品へ。
春猿火も、これまでと違う自分を引き出せる可能性を感じたと話しています。

「回向 -echo-」は、サバイバルホラーゲームの世界観から歌詞を作った曲です。
「XRXD」では『Grand Theft Auto V』を手掛かりに、車で街を駆けるようなゲームの場面が発想のもとになりました。
自分の実生活を打ち明ける歌に加え、架空の状況へ入り込んで言葉を届ける役割が、アルバム全体の主題になったのです。

収録しない曲を選ぶことも、新しい春猿火を作った

新しい主題は、入れる曲だけでなく、入れない曲にも表れています。
春猿火は、自分の過去を扱う「テラ」や、「シャーマニズム」のテーマを担う「身空歌」、そのシリーズの完結を飾る「巫女」を収録しませんでした。
それぞれ伝えることが違うからだと、本人は説明しています。
過去の自分を語る歌を全部持ち込むのではなく、この作品で見せたい世界に合わせて選んだのです。

一方、「砂時計」と「room wear」は、もともと仮想世界という構想で作った曲ではありませんでした。
本人は、その二曲の黄昏を思わせる感触がアルバムの色を深めると考えています。
激しい曲で統一することより、別の表情も含めて一つの世界を作ることを選んだ作品でした。

「砂時計」公式MV(2024年公開)。

ASOBOiSMが詞を書いた「SWIPE!」も、このアルバムに収められました。
初期に自分の思いをたかやんへ託していた人が、複数の書き手の言葉を歌う場を広げています。

ここまで作風が広がっても、ラップへの戸惑いが完全に消えたわけではありません。
2025年の取材でも、自分の言葉で歌詞を紡ぎ、韻を踏むラッパーへの敬意があるからこそ、自分がラップしてよいのかという気持ちは残ると話しています。
そのうえで、歌うための引き出しとして今も挑戦を続けている。
「自由律」で言葉を書き始めた後も、自分でラップの詞を完成させる難しさは強く感じていました。

本人は、昔の曲を聴くと、声の幼さや納得する表現にまだ届いていなかった部分が恥ずかしくなるとも語りました。
初期の自分を振り返れるようになっても、次の曲には難しさがある。
春猿火の変遷は、ためらいがなくなるまで待つ歩みではなく、作り手や共演者と一緒に試しながら、歌える役割を増やしてきた歩みです。

一曲の中で歌とラップをどう切り替え、言葉をどう届けるかは、春猿火の歌い方で掘り下げています。

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