中孝介の歌声はどう変わった?「それぞれに」から「声をきかせて」まで、言葉との距離をたどる

2016年のインタビュー取材で撮影された中孝介 シンガー
中孝介の2016年インタビュー写真。出典:UtaTen

2006年、奄美大島の店でメジャーデビュー曲「それぞれに」を歌った中孝介は、最後まで歌い切れずに泣き崩れました。
島の唄者がポップスへ進むことをどう受け取られるか、本人にも迷いがあったからです。
10年後、その頃の録音を聴き返した彼は、当時は音程をなぞるように歌っていたと語ります。
では、シマ唄で身につけた声は、ポップスを歌い続ける間に何を覚えたのでしょうか。

元ちとせの歌に出会うまで、シマ唄は「自分の歌」ではなかった

奄美大島で育った中ですが、子どもの頃に聴いていたのは流行歌や母親の好きな歌謡曲。
ピアノにも触れていました。
シマ唄を自分で歌い始めるきっかけは、高校1年生のときに元ちとせの生歌を聴いたことです。
島にこんな音楽があるのかと驚き、地元で手に入る彼女やほかの唄者の録音を聴き、まねるようになりました。

本人によれば、最初から独特の節回しができたわけではありません。
カラオケではまっすぐ歌っていた声が、シマ唄を聴き込み、三味線を習ううちに変わっていった。
奄美出身だから自然に歌えたのではなく、一人の聴き手が時間をかけて覚えた歌です。

ただ、そのまま島の歌だけを歌い続ける道は選びませんでした。
中は、シマ唄の詞には島の歴史や人々の経験が入っているから、形を変えて外へ持ち出すことにためらいがあったと話しています。
一方で、自分の声で新しい音楽を作りたいとも思っていました。
この二つをどう両立するかが、最初の転機になります。

2006年「それぞれに」――懐かしさは伝えたい、でもまだ音程を追っていた

メジャーデビュー前、中は約1年、さまざまな曲のデモを録り、自分なりのポップスの歌い方を探しました。
その過程で出会ったのが、江崎とし子の書いた「それぞれに」です。
羽毛田丈史に勧められて初めて聴いたとき、中が引かれたのは故郷を思い出させる詞でした。
江崎が自分のアルバムで歌っていた曲を、中も自分の声で届けたいと思ったのです。

その詞に重なるのが、奄美の3月の風景でした。
進学などで島を離れる若者や、任期を終えた先生を、港や空港で見送る季節。
中は、外で経験を積み、いつかまた帰ってきてほしいという気持ちがこの曲に重なると話しています。
島の言葉でなくても、奄美でいう「なつかしゃ」を届けられる。
その可能性を感じた曲が、2006年のメジャーデビュー曲になりました。

しかし、曲への思いと、それを声で伝える力は同時には育ちません。
中は2016年の取材で、デビュー当時の「それぞれに」は音程をなぞるような歌い方だったと振り返っています。
島の節回しをポップスに持ち込むだけでは、詞が誰かの記憶に届くとは限らない。

あの録音を否定しているのではありません。
本人は、当時の声には今より良かったと思える部分もあると言います。
変化を測る物差しは、声の若さや高さではなく、言葉をどう置けるようになったかです。

デビュー日に奄美の店へ集まった人たちを前に涙がこぼれたのも、単なる成功の喜びではありませんでした。
島で唄者と見られていた自分が、別の音楽へ踏み出す。
それでも応援してくれる人がいるとわかった瞬間だったと、10年後に本人が語っています。

窓辺で取材に応じる中孝介
取材で撮影された中孝介。
出典:UtaTen

「花」の後も、歌う言葉と曲の幅を広げた

2007年の「花」は、森山直太朗が作曲し、御徒町凧が詞を書いた曲です。
中は当時、まず曲をきちんと歌うことに意識が向いていたと後に振り返っています。
シマ唄の節を持つ声が知られるきっかけになった一方、歌い手自身には、その声で何を伝えるかという次の課題が残りました。

中華圏での活動は、その課題を別の角度から突きつけます。
2010年の華語圏向け作品では中国語の「青蔵高原」に挑みました。
中国語でも歌ってほしいという現地のファンの声に応えようとした選曲です。
本人は、中国語の四声や発音に苦労し、北京での録音中にプロデューサーの張亜東から発音と表現を細かく教わったと説明しています。

難しかったのは、発音だけではありません。
参考にした歌唱には節の異なるものがあり、自分がどう歌うかを考える必要もありました。
なかでも終盤の、声を張り上げるフェイクが難しかったと本人は振り返ります。
張亜東はブースの向こうで身ぶりも交えて伝えてくれたそうです。

いつもの節回しを加えるだけでは、言葉そのものが伝わりません。
歌う相手と使用する言語が変われば、身につけた声の扱いも考え直す必要があったのです。

「青蔵高原」――2015年上海公演。

2013年には「雨の降らない星では愛せないだろう?」を高橋愛と歌いました。
ファンのリクエストから選び、自分の10年間でも新しい挑戦だったと中は語っています。
他人の書いた歌を引き受けること自体は「それぞれに」の頃からしてきましたが、ここではアイドルの歌を、元の歌い手と一緒に自分の作品へ迎え入れました。
シマ唄かポップスか、という最初の二択では収まらない歌手になっていきます。

10周年に聴き直して見えた、声の「間」の変化

2016年のベスト盤を作る際、中は過去の曲を並べて聴き直しました。
そこで特に気づいたのが歌い方の変化です。
初期の声には当時ならではの艶がある。
その一方、今なら語尾や短い間の取り方を変えると思う箇所もあったと話しています。
「昔のほうがよい」と「今なら違う歌い方をする」が、本人の中で同時に成り立っていました。

「花」も、同じ曲なのに言葉の受け止め方が変わった例です。
録音時は正しく歌うことに心を配っていた。
歌い続けるうちに、奄美から旅立つ若者の願いが歌詞に重なり、聴く人へ詞を渡したい思いが強くなったと中は語ります。
2007年の録音を年齢だけで「未完成」と呼ぶのは違うでしょう。
あのときの声が曲を広め、その曲を歌い続けた時間が、歌詞の意味を増やしたのです。

インタビュー中に話す中孝介
取材中の中孝介。
出典:UtaTen

2022年、受け取った歌を今度は言葉にして渡す

2022年には、元ちとせの「ワダツミの木」をカバーしています。
原曲が出た2002年、中は沖縄の大学に通い、現地の民謡歌手やミュージシャンから刺激を受けていました。
自分も歌って生きていきたいと考え始めた頃、同郷の先輩の曲が広く届く様子に励まされたといいます。

この曲は、デビュー前に東京のスタッフと歌の方向を探るデモでも取り上げ、その後のコンサートでも歌ってきた曲でした。
20年という節目のカバーには、有名な曲を選ぶ以上の意味があります。
自分が歌手になる背中を押してくれた歌を、経験を積んだ今の歌手として届け直す機会でもあったのです。

2022年の「声をきかせて」では、中が市川喜康とともに詞を書きました。
作曲は、2007年のアルバム『ユライ花』で中が作詞した「星空の下で」にも関わった鈴木秋則。
以前の出会いが、時間を置いて再び一曲につながりました。

中はこの曲について、シマ唄の先輩たちが年を重ね、もう会えない人も増えたと語っています。
若い頃には彼らの歌から生き方を受け取ってきた中が、今度は別れの記憶を自分の詞にしました。
録音では、深夜のラジオで誰かに穏やかに話しかけるように歌うことを意識したそうです。
「それぞれに」で音程を追っていたという自己評価から見ると、この頃には聴く人自身の思い出が浮かぶように歌うことを目指しています。

同じ年、中は元ちとせと「渡しゃ節」を歌う映像も公開しました。
高校生の彼が録音を聴きまねた相手と、2022年には二人で奄美の歌を弾き語る。
ポップスへ進んだからシマ唄を置いてきたわけではありません。
島で覚えた節を持ちながら、江崎とし子の曲、森山直太朗の曲、中国語の歌、そして自分も詞を書いた歌へと、声を渡す先を増やしてきたのです。

中孝介の変遷は、節回しが強いか弱いかだけでは説明できません。
島の唄者からポップスの新人になったときは、まず音程を追っていた。
歌を重ねた後には、短い間と言葉の意味を選び直せるようになり、やがて自分の記憶を詞として渡した。
最初に元ちとせの声を聴いて驚いた高校生が、誰かの記憶を呼び戻すために歌う人になっています。

「花」の作曲者のデモからどう離れ、シマ唄の節回しをどこに残すかという一曲の具体的な判断は、中孝介の歌い方で掘り下げています。

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