松たか子さんの歌声は、大きな技を見せつけているようには聞こえません。
話していた人が、そのまま旋律の中へ入ったような自然さがあります。
ところが本人は、歌うことには緊張し、その場で頼まれてもすぐには歌えないと話しています。
練習をして、自分の中に歌を通してからでなければ声にならないのです。
この告白は、松さんの歌い方を理解する大きな手掛かりです。
自然に聞こえるのは準備が少ないからではなく、準備の跡を表へ出さないからです。
舞台の強い声、日常会話のような声、役として歌う声を一つの型に固定しない。
曲の中で誰が、誰に、どんな温度で話しているのかを決めることで、同じ人の声が別の人物のように変わります。
松たか子は「すぐ歌える人」ではなかった
俳優としても歌手としても長い経験があるため、どんな曲でも瞬時に歌えると思われがちです。
実際には、本人が歌について語る時、器用さより緊張と準備の話が先に出てきます。
声の仕事では、自然な表現と、少し大きく輪郭を付けた表現の両方が必要になります。
歌でも同じように、普段の話し声をそのまま伸ばすのではなく、作品に必要な距離へ声を調整していると考えると分かりやすいでしょう。

準備とは、高い音だけを繰り返して喉を強くすることではありません。
言葉をどこで区切るか、どこまで感情を見せるか、役と自分をどの距離に置くかを身体へ落とし込む時間です。
2003年の時点でも、本人は言葉の切れ目をどう扱うかに難しさを感じていました。
声量より先に文章の流れを考えていたことが、後の歌にもつながっています。
自然な歌とは、何もしていない歌ではありません。
作った感じを残さないところまで、選択を終えた歌なのです。
舞台の声量を、そのままポップスへ持ち込まない
歌舞伎の家に生まれ、十代から舞台に立った経歴を見ると、松さんの歌声を「舞台仕込みの声量」で説明したくなります。
しかし、それだけでは『おとなの掟』の近い距離感も、『Presence I』の軽やかな言葉運びも説明できません。
舞台に立つ日の本人は、眠ること、食べること、普段と違うことをしないことを大切にしています。
声を温める時には、地声と裏声の両方を使える歌を選びます。
一方で、『アナと雪の女王』の歌は準備運動にはできないとも話しました。
声を大きく使うため、歌い終えるだけで消耗するからです。
ここから見えるのは、強い曲を歌えば声が鍛えられるという考えとは逆の慎重さです。
必要な時だけ大きな表現を使い、日常的な準備では声の両側を偏りなく動かす。
高音で力む原因を考える時も、松さんの大きな音だけを真似するのは近道になりません。
舞台で通る声より、作品ごとに声の大きさを変えられることの方が重要です。
『おとなの掟』では、歌手より先に人物が立っている
自分で作詞作曲した『明日はどこから』と、椎名林檎さんが書いた『おとなの掟』では、歌う時の入口が違います。
前者では自分の言葉を届け、後者ではドラマの人物と四人の関係を背負います。
『おとなの掟』の録音では、普段の自分の制作とは違う進め方に飛び込みました。
本人は、歌手として「こう歌うべき」と守りに入るのではなく、まずやってみる姿勢で臨んでいます。
作品評でも、初期の飾らない歌から、役を通して歌う表現へ深まったと捉えられてきました。
声を派手に変えるより、歌っている人の立場を変えることで、同じ日本語の重さが変わるのです。
この特徴は、俳優が歌も上手いという説明だけでは足りません。
松さんにとっては、歌も台詞も「作品の中で誰が話すか」を作る仕事なのだと考えると、二つの活動が一本につながります。
『Presence I』で、歌声はラップの隣まで動いた

『大豆田とわ子と三人の元夫』の主題歌『Presence I』では、松さんの声がメロディーだけに収まりません。
ラップ、三人のコーラス、ゆるやかなビートの間を行き来します。
制作側は、松さんの声に合うキー、旋律、リズムを組み立てました。
本人の声を既成のポップスへ押し込むのではなく、その声が自然に存在できる場所から曲を作ったのです。
聴き手の中には、松たか子本人より、ドラマの大豆田とわ子が歌っているようだと感じた人もいました。
これは物まねで人物の声を作ったという意味ではありません。
言葉を置く速度や感情の見せ方が、役の暮らしと離れていなかったからでしょう。
宇多田ヒカルさんの歌い方にも、話し言葉とリズムを近づける面白さがあります。
宇多田さんが自分の言葉をビートの中で細かく揺らすのに対し、松さんは作品から預かった人物を、会話の延長で音楽へ連れてきます。
高音を「地声かミックスか」だけで決めにくい理由
『レット・イット・ゴー』のような大きな曲を歌うと、松さんの高音を地声、裏声、ミックスボイスのどれかに分類したくなります。
けれど一つの名前で全曲を説明すると、肝心の使い分けが見えなくなります。
本人は最初に曲を受け取った時、自分には歌えないほど大きな歌だと感じました。
続く『イントゥ・ジ・アンノウン』でも、簡単にできる仕事としてではなく、難しい挑戦として向き合っています。
同じ高さでも、役が感情を解放する場面と、日常の会話に近い場面では必要な音量が違います。
母音、言葉、曲の勢いが変われば、声の厚みも一つではありません。
ミックスボイスと地声の違いを知ることは、張り上げを見分ける助けになります。
ただし松さんの歌を理解する終点は、声区名を当てることではありません。
その高音が、人物の気持ちを外へ出すために大きいのか。
それとも、歌手の技術を見せるために大きいのか。
松さんの場合は、前者へ戻るための準備が歌声を支えています。
参考にするなら、声より先に「誰の言葉か」を決める
松さんの歌い方から参考にしやすいのは、声を似せる方法ではありません。
歌う前に、言葉の持ち主を決める順番です。
『明日はどこから』では、自分の中から出た言葉が中心にあります。
『おとなの掟』では、四人の登場人物の関係が先にあります。
『Presence I』では、ドラマの人物と現代的なビートが声の位置を決めます。
三曲を比べると、毎回同じ美声を守ることより、作品に合わせて自分の出方を変えていると分かります。
歌う人が前へ出る曲と、人物を通すために一歩引く曲を、同じ基準で評価しないことが大切です。
表面だけを真似し、ささやけば自然になる、大声なら舞台的になると考えると失敗します。
ささやきも強い高音も、言葉の目的と準備がなければ形だけが残ります。
坂本真綾さんの歌い方と比べると、この考えはさらに分かりやすくなります。
二人とも俳優と歌の領域を行き来しますが、坂本さんが作り手の色を通す余白を持つのに対し、松さんは人物の生活まで声へ連れてくるところに強みがあります。
まとめ
松たか子さんの歌い方は、舞台仕込みの声量だけでは説明できません。
本人は歌に緊張し、その場で簡単に歌うのではなく、練習を通して作品と役を自分の中へ入れます。
準備運動では地声と裏声の両方を偏りなく使い、大きな曲は消耗するものとして扱います。
強い声を常に出すのではなく、必要な時にだけ使える状態を保っているのです。
『おとなの掟』では人物を通して日本語の重さを変え、『Presence I』では会話とラップの隣まで声を動かしました。
自然に聞こえるのは、何もしていないからではありません。
誰の言葉を、どの距離で届けるかを決め、準備の跡を消してから歌っているからです。
1997年の歌手デビューから『アナと雪の女王』『Presence I』へ、この役割がどう広がったのかは、松たか子さんの歌唱変遷で詳しくたどります。
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