大橋卓弥さんは、デビュー前に自分の声を「個性がない」と考えていました。
ところが現在は、最初の一節だけで大橋さんだと分かる歌手の一人です。
この逆転を、生まれつき珍しい声だったからと片づけると、大橋さんの歌の面白さを見失います。
本人はいまも自分の声を特別に好きなわけではないと話していますが、その声で誰を演じ、どの言葉をどれほど強く渡すかについては、驚くほど細かく考えています。
つまり、個性の中心にあるのは固定された声色ではありません。
曲の主人公に合わせて、地声と裏声、強い声と消えそうな声、話すような歌と伸びやかな歌を選び直す方法こそが、大橋さんらしさを作っています。
「個性がない」と思っていた声が、一声で分かる声になった
大橋さんはアマチュア時代、周囲から歌声に個性がないと言われた経験があります。
本人も、自分の声は人にまねされるような分かりやすい特徴がないと悩んでいました。
そこで選んだのは、無理に奇妙な声を作ることではありませんでした。
歌い方へ一定の制限を設け、何でもできる声ではなく「この人ならこう歌う」という輪郭を少しずつ作ったのです。
一方、ボイストレーナーによる解説では、現在の声は丸く柔らかく、少しくもった質感を持ち、一節で本人だと分かると評されています。
本人には平凡に思えた声が、長い時間をかけて選択を重ねた結果、聞き間違えにくい声になりました。
ここには、声の個性についての少し意外な答えがあります。
珍しい音色を持っていることだけが個性ではなく、同じ場面で何を選び、何を選ばないかが積み重なると、その判断自体が歌手の声になるのです。
音を出す前に、歌の中で生きる人物を作る
大橋さんは曲を書く時、主人公の年齢や職業、暮らし方まで細かく想像することがあります。
犬を飼っているかどうかといった、歌詞には直接出ない設定まで考えるというほどです。
これは作詞のためだけの資料ではありません。
録音では、その人物がいま誰へ何を言おうとしているのかを作り、大橋さん自身ではなく主人公として歌います。
同じ「君」や「あなた」でも、距離の近い恋人へ向けた言葉と、もう会えない相手へ向けた言葉では、声の置き方が同じになりません。
大橋さんの歌に感情が見えるのは、悲しい声や優しい声を表面へ足しているからではなく、言葉を発する人物の事情が先に決まっているからです。

役へ入るまでには助走も必要です。
録音では一曲を通して何度も歌い、数回を過ぎた頃に考えることが減って、歌の中へ入れる瞬間が来ると説明しています。
一音ずつ正解へ直すより、曲の始まりから終わりまで人物の気持ちが途切れないことを重く見ています。
そのため、音程が整った歌と表現が届く歌が別々に録れた場合、後者を選ぶこともあります。
地声と裏声は、高さではなく言葉の強さで選ぶ
大橋さんの高音を、地声か裏声かだけで分類しようとすると、曲の重要な部分が抜け落ちます。
本人は「OverDriver」の録音で、同じ旋律をファルセットで歌う場所と、最後だけ地声で歌う場所を意識的に分けたと説明しています。
最後に地声を選んだ理由は、単に盛り上がるからではありません。
主人公が前へ進もうとする意志を、それまでより強く押し出すためでした。
裏声は高い音を逃がすためだけの声ではなく、まだ迷っている気持ちや、距離のある言葉を表すことができます。
反対に地声の成分を増やせば、同じ高さでも言葉が相手へ踏み込んで聞こえます。
ミックスボイスという言葉も、高音を一種類へ固定する名称ではありません。
地声と裏声の境目を急に割らず、曲に必要な強さへ移動する考え方として捉えると、大橋さんの歌に近づきます。
ミックスボイスの出し方と見分け方でも、名称を当てることより、前後の声が無理なくつながるかを基準に整理しています。
大きな声より、消えそうな声に芯を残す
大橋さんが強く影響を受けた歌手の一人が玉置浩二さんです。
特に驚いたのは、大声の迫力より、聞こえるか聞こえないかほど小さな声にも芯が残り、そこから一気に大きな声へ移れることでした。
この影響を知ると、大橋さんの歌の聞きどころも変わります。
サビの最高音だけでなく、その直前でどこまで声を細くし、言葉を近く感じさせているかが重要になります。
小さい声で息だけになれば、次の大きな声との落差は音量差にしかなりません。
細いまま音程と言葉の輪郭が残るからこそ、声を広げた瞬間に感情まで動いたように聞こえます。
玉置浩二さんの「消えそうな小声」を合わせて読むと、太い高音を作る前に、弱い声を失わないことがなぜ大切なのかが分かります。
マイクから離れる動きまで歌唱の一部である
大橋さんは録音で、コンプレッサーをかけずに歌うことがあります。
コンプレッサーは音量差を整える機能ですが、先に均一化すると、本人がマイクとの距離で作った強弱まで変わってしまうからです。
強く歌う時には少し離れ、小さな声では近づくという動きは、録音技術者へ任せる後処理ではありません。
どの言葉を耳元へ置き、どこで視界を広げるかを決める、演技の一部です。
ピッチ補正を前提にせず、一曲を何度も通して録る姿勢も同じ考えから来ています。
完璧な一音をつなぎ合わせるより、主人公が途中で別人にならない一回を残したいのです。

音程の正確さを軽視しているわけではありません。
正しい音程が感情を運ぶために必要な時と、少し生々しい揺れの方が言葉を届かせる時を分けているのです。
「奏」が難しいのは、高音だけが理由ではない
「奏」は大きく叫ぶ曲ではありませんが、カラオケでは簡単に大橋さんらしく聞こえない曲です。
専門家は、丸く柔らかな声の質感に加え、音を伸ばす長さ、拍の置き方、細かなフェイクまで曲と結びついている点を難しさとして挙げています。
最高音だけなら届いても、すべてを同じ音量で歌うと、別れを前に言葉を選んでいる人物が見えにくくなります。
反対に、優しくしようとして息ばかり増やすと、長い旋律の途中で言葉の芯が消えます。
大橋さんは現在、デビュー当時の「奏」を同じようには歌えないと話しています。
いまは表現の幅が広がった一方、若い頃だけにあった声の艶や厚みは再現できないというのです。
この発言は、正しい「奏」が一種類ではないことも示しています。
声の年齢に合わせて主人公を作り直し、その時の声で別れの意味を届けるから、同じ曲が長く歌い継がれます。
まねるなら、声色ではなく判断の順番を見る
大橋さんの丸い鼻声や細かなフェイクだけをまねると、歌は似顔絵のようになりがちです。
参考にしやすいのは、声を出す前の判断です。
まず、この歌を話している人物は誰で、目の前に誰がいるのかを考えます。
次に、いちばん強く渡したい言葉を一つ決め、それ以外を同じ強さで歌わないようにします。
その後で初めて、裏声へ軽くするのか、地声の成分を残すのか、小さな声を近く置くのかを選びます。
順番を逆にして「この曲はミックスボイスで歌う」と決めると、技術が主人公より前へ出てしまいます。
これは大橋さんの声帯を再現する方法ではありません。
自分の声を変に飾らず、曲ごとに必要な役割を与える方法です。
痛みや強いかすれが出た時は、表現を深めようとして続けないでください。
話し声の違和感が長引く場合は、耳鼻咽喉科などの専門機関へ相談することが大切です。
大橋卓弥の個性は、一つの声を守ることではない
大橋卓弥さんは、自分の声に個性がないと悩んだところから出発しました。
その後、奇抜な音色を作るのではなく、歌の主人公を細かく考え、地声と裏声、強い声と小さな声を言葉の意味に合わせて選び続けました。
「奏」の静かな別れと「OverDriver」の前へ進む意志が、同じ声なのに別の人物として聞こえるのは、そのためです。
一声で大橋さんだと分かるのに、どの曲でも同じ人には聞こえません。
ソロ活動や体調の変化を通して、若い頃の艶を失う一方で表現を広げてきた歩みは、大橋卓弥さんの歌声の変遷で年代順にまとめています。
大橋さんの歌唱を一言で表すなら、個性的な声を守り続ける技術ではありません。
自分の声を受け入れた上で、曲の中に生きる人物へ毎回貸し出す技術です。






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