もんたよしのりの歌声はどう変わった?二度のデビューから遺作までの歌唱変遷

若い頃のもんたよしのり もんたよしのり

もんたよしのりさんの歌声は、若い頃に作ったしゃがれ声がそのまま晩年まで残ったわけではありません。
一度目のデビューでは結果を出せず、アメリカやヨーロッパを巡り、帰国後の再デビューでようやく「ダンシング・オールナイト」にたどり着きました。

その後も、ヒット曲の強烈なイメージ、バンド解散、ソロ活動、阪神・淡路大震災、23年ぶりの再結成を経験します。
さらにライブを失ったコロナ禍には、自分の声と身体を発声から作り直しました。

変わったのは声の高さやかすれ方だけではありません。
「自分の声を手に入れたい」と無茶をした青年が、最後には毎日の管理で歌える身体を守り、完成した歌を仲間へ託す人になったことです。

1960年代、歌手になる前に神戸のダンスホールで居場所を見つけた

もんたさんが最初に人前で歌った場所は、神戸・三宮のダンスホール「宝石」でした。
高校生だった本人は、大人たちが踊る店へ通い、先輩バンドのボーカルが来られなくなった日に代役を任されます。

この体験は、後の歌声を考えるうえで大切です。
テレビの向こうにいるスターをまねる前に、踊る人のすぐそばで、声によって場の空気が変わる瞬間を知ったからです。

一方、当時の声は後年のようなしゃがれ声ではなかったと伝えられています。
古いリズム・アンド・ブルースへ似合う声を求め、波止場や自宅で大声を出したという逸話が残りました。

最初の変化は、成長に任せて自然に起きたものではありません。
自分の好きな音楽へ入るため、声そのものを変えようとしたところから始まりました。

1971年、一度目のデビューでは「自分の歌」が届かなかった

1971年、もんたさんはソロ歌手としてデビューします。
しかし、その活動は大きな成功にはつながりませんでした。

後の「ダンシング・オールナイト」だけを知っていると、最初から珍しい声を持つスターとして現れたように見えます。
実際には、若くしてレコードを出した後、思うような結果を得られず、表舞台から離れた時期があります。

本人はやがて日本を離れ、アメリカやヨーロッパなどを旅しました。
言葉が通じない土地でも、歌うことで相手との距離を縮めたと話しています。

一度目のデビューで足りなかったものを、単に発声練習だけで埋めたのではありません。
知らない土地で人へ向けて歌い、「上手に聞かせる」より前に、声で関係を作る感覚を深めていきました。

1980年、最後の機会に原点の音を選んだ

帰国後、もんたさんはもんた&ブラザーズを結成し、1980年に再デビューします。
そのデビュー曲が「ダンシング・オールナイト」でした。

当時、曲には洗練された新しいブラス編曲が用意される可能性がありました。
ところが本人は、その方向では歌いたくないと強く主張します。
求めたのは、若い頃に通ったダンスホールやキャバレーを思わせる、もっと古い響きでした。

一度目のデビューに失敗し、次が最後になるかもしれない状況で、売れそうな新しさより自分の原点を選んだのです。
結果として、荒い声、夜の湿度を帯びた旋律、古いダンスホールの記憶が一つになりました。

この曲は大ヒットし、日本レコード大賞金賞などを受賞します。
しゃがれ声はここで、変わった音色から、誰もが一声で本人だと分かる名前そのものへ変わりました。

もんた&ブラザーズで活動した時期のもんたよしのり

1981〜1983年、ヒットの声を一曲の型で終わらせなかった

「ダンシング・オールナイト」の成功は大きいほど、次の曲にも同じ夜、同じかすれ、同じ熱量を求める力になります。
もんた&ブラザーズは「赤いアンブレラ」「DESIRE」などを発表し、もんたさんは強烈な代表曲の後を歌い続けました。

1983年には、大橋純子さんとの「夏女ソニア」もヒットします。
一人で曲の世界を背負う歌から、異なる声と受け渡しをするデュエットへ広がった時期です。

この数年間で重要なのは、最初の大ヒットを完全に消そうとしなかったことです。
しゃがれた音色という看板を残しながら、速さ、明るさ、相手との掛け合いを変え、同じ声が置かれる景色を増やしました。

ただし、成功は自由だけを与えたわけではありません。
何を歌っても「ダンシング・オールナイト」の歌手として受け取られるほど、一曲の印象が大きくなっていきました。

1984〜1991年、バンド解散後に声の看板を背負い直した

もんた&ブラザーズは1984年に解散します。
1986年にはソロ活動を再開し、1990年の『ON THE BORDER』、1991年の『HALLELUJAH』など、自分名義の作品を重ねました。

バンドの看板が外れると、あの声は以前より直接「もんたよしのり個人」と結びつきます。
一方、世間の記憶には1980年の大ヒットが強く残り続けました。

この時期を、ヒット後の縮小とだけ捉えると大切な部分を見落とします。
一度目のソロデビュー、バンドでの再出発、再びソロという三つの立場を経験し、本人は同じ声を異なる器へ何度も置き直しました。

もんたよしのりさんの歌い方・発声で扱った、かすれの中でも言葉を消さない特徴は、バンドの勢いだけに頼らず歌を成立させる期間を経て、より重要になったと考えられます。

1995年、神戸へ戻った歌声が個人の成功を越えた

1995年1月、阪神・淡路大震災が起きます。
神戸で歌い始めたもんたさんは、被災地のための活動に動き、同年夏には大規模なチャリティーコンサートに関わりました。

若い頃、ダンスホールで歌うことは自分の居場所を見つける行為でした。
震災後は、その声を生んだ街へ歌を返す側になります。

ここでは声の価値が、最高音やヒット数だけでは測れません。
誰の声かすぐ分かるほど長く親しまれたことが、不安の中にいる人を同じ場所へ集める力へ変わりました。

旅先で歌いながら知らない人と関係を作った経験も、故郷での活動と無関係ではなかったのでしょう。
歌声は本人をスターにした看板から、人と場所をつなぐ道具へ役割を広げました。

2007年、23年ぶりの再結成で「昔求めた音」に追いついた

2007年、もんた&ブラザーズは23年ぶりに再結成しました。
久しぶりの舞台を見た観客から「変わっていない」と言われた時、もんたさんは、人は変わるものであり、変わり続けるべきだという趣旨の言葉を返しています。

さらに再結成について、昔求めていた音をようやく出せるようになったとも語りました。
これは、若い頃の声を完全に保存できたという意味ではありません。

1980年当時は、欲しい音を勢いと直感でつかもうとしていました。
解散後の活動や年月を経たからこそ、何を残し、何を変えれば自分たちの音になるのかを選べるようになったのです。

再結成は懐かしさの再演であると同時に、若い頃には完成させられなかった音へ、年齢を重ねた演奏で追いつく機会になりました。

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2020〜2023年、歌えない時間が発声を作り直す転機になった

コロナ禍でライブ活動が止まると、もんたさんは音楽が自分にとって栄養剤だったことに気づきました。
舞台を失ったことで年齢を強く感じ、自分の武器が薄れていくような感覚を持ったといいます。

再開へ向けて行ったのは、若い頃のように声を荒らすことではありません。
発声から始め、方法を考え、喉と身体を整え直すことでした。
本人は、若い頃にしてこなかったことへ、晩年になってより厳しく取り組んだと説明しています。

2023年8月のライブ後には、観客アンケートで声量に驚いたという反応が多かったことを喜び、体力と声量を維持するための日々の努力が実ったと記しました。

70代の声は、昔の声の残量ではありませんでした。
歌う機会が減った時代に合わせ、毎日の準備で本番へ戻れるよう再設計した声です。

晩年のステージに立つもんたよしのり

2023〜2024年、最後の舞台の後も新しい歌が残った

もんたさんは2023年10月、大動脈解離のため72歳で亡くなりました。
家族によれば、亡くなる前の公演では以前より声が出て、力強さも感じられたといいます。

晩年の発声の作り直しが、単なる本人の気分ではなく、舞台を見た近しい人にも変化として届いていたことが分かります。

死後の2024年2月には、アルバム『グッバイ ブラザー』が発表されました。
本人が全曲の作詞・作曲を手掛け、残された音源を仲間が完成させた作品です。

一度目のデビューで届かなかった青年は、再デビューで巨大な代表曲を持ち、最後には自分が不在でも仲間が完成へ運べる歌を残しました。
歌声の変遷の終点が、過去曲だけの追悼ではなく、新しい作品になったことは象徴的です。

もんたよしのりの歌声は、傷つけて得る声から手入れして託す声へ変わった

もんたよしのりさんの歌唱変遷は、若い頃の方が声が出た、晩年は弱くなったという線では語れません。
神戸のダンスホールで歌い始め、1971年の最初のデビューでつまずき、旅を経て1980年にもう一度勝負しました。

「ダンシング・オールナイト」では、自分の声が生まれた古い音楽の景色を選びます。
バンド解散後もその声を背負い、震災後は故郷へ返し、再結成では若い頃に求めた音へ年月をかけて追いつきました。

そしてコロナ禍の後、声の物語は大きく反転します。
若い頃に無茶をして作ったと伝わる声を、晩年には無茶ではなく、発声と身体の管理によって守るようになったからです。

遺作までたどると、あのしゃがれ声は傷の武勇伝だけではなくなります。
失敗するたびに歌う場所を変え、歌えない時には身体を作り直し、最後には仲間へ歌を託した人の履歴として聞こえてきます。

世良公則さんの歌唱変遷では、同じ時代のロック歌手がバンドとソロを行き来しながら、声の見せ方をどう変えたかをたどれます。
大友康平さんの歌唱変遷と比べると、ハスキーな声を晩年まで維持するための準備にも、それぞれ異なる歴史があることが分かります。

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