1977年、山口百恵は「秋桜」を受け取ったとき、嫁ぐ娘の気持ちをまだ自分のものにできず、うまく歌えないと作詞・作曲のさだまさしに伝えました。それでも曲はレコードになり、代表作の一つになります。3年後、最後のコンサートを終えた百恵は、今ならこの歌を書いてくれた思いが分かると、さだにメッセージを残しました。どちらも、さだ自身が後に語った出来事です。
最初から何でも歌いこなせた、という話ではありません。少女として歌い始めた百恵が、作り手の想像を超える表現を手に入れ、やがて以前は遠かった歌の気持ちを自分の言葉として受け取るまで。七年半の録音と舞台を、その変化が見える曲からたどります。
1973年、「としごろ」から始まった歌
山口百恵は1973年、「としごろ」で歌手デビューしました。後の「横須賀ストーリー」や「秋桜」から初期へさかのぼると、制作側が彼女に任せる曲の範囲をどう広げたかが見えてきます。出発点を声の印象だけで片付けると、この変化を見落としてしまいます。
デビュー年の「禁じられた遊び」から引退まで制作を担当した川瀬泰雄によれば、初期の制作では、百恵が無理なくついて来られる範囲を考えていたそうです。歌手に与える曲の幅も、制作側が見積もった力に合わせていた。変わっていったのは、百恵の表現だけでなく、作り手が彼女に任せられると考える範囲でした。
その川瀬が、歌手として伸びるかもしれないと初めて強く感じたのが、1975年のシングル「ささやかな欲望」です。百恵は映画やテレビでの演技、読書、さまざまな音楽からも吸収し、レコードを重ねるごとに成長した、と川瀬は振り返っています。彼が評価したのは単なる歌唱技術ではなく、歌の中で百恵自身の存在が大きくなっていくことでした。
1976年、歌いたい作り手を自分で選ぶ
次の転機は、作家の側から見ても意外な形で訪れます。1976年、阿木燿子と宇崎竜童のもとに、百恵のアルバム用の曲を頼みたいという依頼が届きました。阿木は、まだ十代のアイドル本人が自分たちを希望したという話を信じられなかったそうです。後年、百恵に直接尋ねると、本人の希望だったと分かりました。
二人の曲を歌ったアルバム『17才のテーマ』について、川瀬は、ここで「歌手・百恵」という個性が形になったと見ています。「横須賀ストーリー」もこの時期にアルバム向けの依頼から生まれましたが、アルバムには入らず、シングルとして発表されました。
百恵にも阿木にも縁のある横須賀を舞台に、阿木が書いたのは、恋人に本心を言えずにいる女性です。阿木は、百恵の歌が自分の想像よりも大人びた仕上がりになったと語っています。年齢を偽って歌ったというより、作品の人物を、自分の声で作り手の予想以上に広げたのです。与えられた歌をこなす段階から、歌いたい作り手を選び、その作品の世界を押し広げる段階へ。1976年の変化はここにあります。
1977年、まだ自分の経験ではない「秋桜」
「横須賀ストーリー」では、自分にもゆかりのある土地が歌の入り口になりました。一方、1977年にさだまさしが書いた「秋桜」は、結婚を控えた娘が母を思う歌です。十八歳の百恵には、まだ実際に通ったことのない場面でした。
さだの回想では、百恵は曲を受け取った後、歌の気持ちがよく分からず、うまく歌えないと電話で打ち明けています。さだは、彼女自身の形で歌ってよいと伝えました。百恵は「秋桜」を録音し、歌として世に送り出します。しかし、録音できたことと、歌詞の出来事を人生の経験として理解したことは、同じではありませんでした。
この一曲は、「横須賀ストーリー」の成功後も、百恵が曲ごとに別の課題と向き合っていたことを示します。歌える役柄が広がるほど、歌い手自身の経験と作品の距離が、かえってはっきり見えることもあったのです。
1978年以降、作り手の予想を超える歌へ
制作側も、百恵に出す課題を変えていきました。川瀬によれば、最初は本人がついて来られる余地を見ながら曲を作っていたのに、後には制作側が追い越されそうだと感じたほどです。ロックだけでなく、ラテン、ジャズ、カントリーなどの要素も少しずつ取り入れました。ジャンルが変わったから声が変わった、と単純には言えません。異なる曲調や人物を、百恵の歌として成立させられるようになったことが重要です。
1978年の「プレイバックPart2」は、作品の人物を細かく描き分けられるようになった代表例です。ただ、この曲の面白さは、七年間の経歴を追うだけでは伝わりません。同じ短い言葉が曲中でどう違って聞こえるかは、山口百恵の歌い方の記事で詳しく取り上げています。
1980年、初期の歌と「秋桜」を同じ舞台に並べる
1980年10月5日の日本武道館公演は、百恵の最後のコンサートでした。公式の曲順には「プレイバックPart2」「横須賀ストーリー」があり、初期の「ひと夏の経験」「青い果実」「としごろ」もメドレーに入っています。後半には「秋桜」が置かれ、最後は「さよならの向う側」で締めくくられました。
この曲順だけで、昔と後年の声の違いを測ることはできません。それでも、デビュー時代の歌を消さず、その後に得た曲と同じ舞台に置いたことは確かです。「秋桜」を書いたさだには、公演を終えた百恵からメッセージが届きました。三年前にはまだ十分に分からなかった歌の思いが、今は分かるという知らせでした。
百恵の変遷は、少女の声が大人の声に変わったという一行では収まりません。制作側が見積もった範囲を超え、自分が歌いたい作り手を選び、曲の人物を広げた。そして「秋桜」のように、歌った後の時間が、歌の意味を本人に近づけることもあった。最後の舞台に初期作と後期作の両方が残っているからこそ、その歩みが見えてきます。







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