石丸幹二の歌い方|「愛せぬならば」はなぜ絶望から大きな歌になるのか

石丸幹二・Sony Music 2020年掲載写真 シンガー

『美女と野獣』の「愛せぬならば」は、ただ声量を見せるための曲ではありません。ベルと心を通わせられない野獣は、人間に戻れる望みを失うことを恐れています。その焦りと絶望があるから、言葉が強い歌へ変わります。石丸幹二はこの曲について、内側にたまったマグマのような思いが歌唱のダイナミックさにつながると説明しました。では、大きく歌うことと、人物の心を伝えることを、どこで結びつけているのでしょうか。

石丸の歌い方を、音域や声量の数値ではなく、役の言葉、場面の相手、演奏との関係から見ていきます。劇団時代から現在への変化そのものは、石丸幹二の歌声の変遷で扱います。

野獣の歌は「怒鳴り声」ではなく、失った後の言葉

「愛せぬならば」の野獣は、ベルへの思いを抱えながら、相手を閉じ込めてはおけないと知っています。物語のこの順番を飛ばし、曲の高い音や大きな響きだけを取り出すと、なぜ激しく歌うのか分からなくなる。石丸自身は、絶望の極みにいる野獣の思いが、歌のダイナミックさを作ると語りました。感情を表すために声が大きくなるのであって、声を大きくした後から感情を貼り付けるわけではないのです。

石丸が舞台で着た野獣の衣装は、本人の表現を借りれば防具のようでした。その重い衣装をまとったまま芝居と歌を続け、最後は変身の仕掛けにも合わせる必要があった。自由に立って一曲を歌うコンサートとは、身体の条件からして違います。だから彼の野獣を考えるときは「どれだけ響く声か」だけでなく、人物として何をしながら歌うのかまで見る必要があります。

2015年のアルバム『My Musical Life』では、この曲が冒頭に置かれました。野獣を演じた舞台の記憶を持ちながら、今度は東京フィルハーモニー交響楽団との録音として歌う。石丸が重視したのは、劇場では鳴っていなかった楽器も加わる、アルバムならではの広がりです。舞台の動作をそのまま再現するのではなく、曲の絶望を声と演奏で伝える場へ移したと読めます。

セリフから歌に入る――「時が来た」と共通する考え方

『ジキル&ハイド』の「時が来た」も、強い高音が印象に残る曲です。ただしジキルは、父を救おうとした研究を認められず、自分の身体で実験すると決めたところで歌います。石丸は、この曲を単なる勝利宣言ではなく、追い詰められた人物の決意として説明しています。題名の勇ましさだけで曲を受け取ると、危うい選択へ踏み出す場面の緊張が抜けてしまいます。

石丸によれば、この曲には終盤の強い高音だけでなく、そこへ届くまでのペース配分が要ります。長く保つ音もあり、最初から最大限の力で押し通すわけにはいかない。高音の発声を一つの技巧として切り離すより、どの言葉で決意が固まり、どこで最後の力を使うかという芝居の設計として見るほうが、本人の説明に近いでしょう。2020年の「時が来た」は、曲を通してその構成を考える手がかりになります。

2018年の『ジキル&ハイド』再演を前に、石丸は作曲家から役には三つの表情があると教えられたと話しました。ジキル、ハイド、そしてハイドの存在を知ってしまったジキルです。最後の人物には、単純な善悪では分けられない人間くささがある。もし二つの声色を切り替えるだけで役が完成するなら、この三つ目の表情を語る必要はないでしょう。石丸が考えているのは「強い声/弱い声」の二択より、同じ人物の中で言葉の意味が変わる瞬間です。

石丸幹二・公式ライブ映像作品ジャケット
石丸幹二・公式ライブ映像作品。画像:公式掲載元。

2025年の取材で石丸は、自分の信条として言葉を大切に歌うことを挙げ、セリフから感情が高まって歌になるのがミュージカルの本質だと話しました。「愛せぬならば」の絶望も「時が来た」の決意も、急に高い声が現れるのではありません。人物がその言葉を言わずにいられなくなった結果として、歌が立ち上がる。その順序が彼の歌唱を理解する鍵です。

東京藝術大学での講演では、歌詞の表面が「うれしい」でも心の奥には悲しみがあり得る、という話もしています。言葉を明瞭に届けることは、書かれた文字を平板に読み上げることと違います。誰の、どんな事情から出た言葉かを舞台上で探す。その積み重ねが、一曲の強弱より先にあります。

同じ「劇中歌」でも、声の相手が違う

石丸がラウルを演じた『オペラ座の怪人』の「オール・アイ・アスク・オブ・ユー」は、相手に向けたデュエットです。一人で曲を終わらせず、相手の声を受けて言葉を返す。2015年の録音では笹本玲奈と歌い、若い恋人の歌に自分の人生経験を持ち込みすぎないよう、あえて削いだと語っています。歌い手が多くを経験したからこそ、役の若さを壊さない選択でした。

いっぽう『壁抜け男』の「普通の人間」は、舞台でも演奏家とのセッションのように歌う曲だと石丸は説明しています。アルバムではピアニストの島健との一発録りを、ジャズの即興に近い親密なやり取りとして振り返りました。決まった感情を大きく押し出す野獣とも、恋人へ言葉を渡すラウルとも違う。演奏者が差し出すものに、その場で応じる歌です。

石丸の歌声に共通しているのは、いつも同じ硬さや響きで通すことではありません。野獣には届かない相手がいる。ラウルには目の前の相手がいる。「普通の人間」には一緒に音楽を動かす演奏家がいる。相手が誰かによって、言葉の渡し方を決めるのです。

「昴」を歌い上げなかった理由

この考えはミュージカル以外にも及びます。2025年のオーケストラ公演で歌った谷村新司の「昴 -すばる-」について、石丸は谷村の歌唱を研究しつつ、オーケストラの前で朗々と歌い上げることは選ばなかったと話しました。宇宙の中の一個人という歌詞の視点を守りたかったからです。大きな伴奏に声の大きさで対抗するのではなく、言葉が描く距離感を先に考えています。

同じ公演の「Stand Alone」には、ミュージカル唱法ではない方法で挑んだとも本人は語りました。どの曲にも舞台のビーストと同じ強さを当てはめれば、歌詞の中の人物が消えてしまうのでしょう。「愛せぬならば」で絶望が大きな歌を生むことと、「昴」で大きく歌い上げないことは矛盾しません。声量を基準に表現を決めていないから、両方を選べるのです。

石丸の歌い方を一つの言葉で説明するなら、強い高音よりも先に「誰が、誰に、なぜ今歌うのか」を決める歌です。「愛せぬならば」は、その答えが絶望した野獣であるために大きくなる。歌声の変化を時期ごとに追うと、その役の声がやがて石丸自身の歌へどう広がったかも見えてきます。

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