井上苑子が2025年に十周年のベスト盤を聴き返したとき、過去の出来事は歌詞だけでなく、声色からもよみがえったそうです。
初期の恋の歌を知る人には、明るく親しみやすい歌手という印象が強いかもしれません。
けれど本人は、一曲の中に前向きさと寂しさを残すことや、二人の人物を一人で歌うことにも、試行錯誤を重ねてきました。
その歩みをたどると、歌声の変化は年齢だけでは説明できません。
友人の恋愛相談を物語にした十代から、他の歌い手の経験を受け取り、自分の迷いまで歌にする二十代へ。
何を歌うかが広がるたびに、言葉をどんな気持ちで届けるかも選び直しています。
2015年――同世代の恋を、自分の声で歌う
2015年のメジャーデビュー作『#17』に収録された「大切な君へ」。
その少し前、井上は「赤いマフラー」から、場面の見える歌詞を書きたいと考えるようになりました。
友人の恋愛相談を聞くのも、そのためでした。
自分の経験をそのまま歌うことと、聴き手が自分を重ねられる歌を作ることは、初めから同じではなかったのです。
本人は恋愛ドラマや漫画にも心を動かされ、実体験に代わるものを受け取っていたと話しています。
歌の人物がどこで相手を見つめ、何に胸を躍らせるのか。
そうした場面を想像することが、同世代に近い言葉を歌う土台になりました。
同じ年の代表曲が、だいすき。
この曲のMVでは、女子中高生から募った恋の体験談が、学校や帰り道を舞台にした物語へ取り入れられています。
コメントをもとに作られたのは、友人同士で初めてのキスを応援する映像の筋書きでした。
楽曲と映像の両方で、聴き手の身近な恋へ結びつく見せ方が選ばれていたことが分かります。

出典:UNIVERSAL MUSIC JAPAN
「ナツコイ」「なみだ」――告白の決意から、別れの感情へ
2016年の「ナツコイ」では、冒頭から好きだという気持ちを示したため、最後をどう結ぶかに悩んだそうです。
井上が選んだのは、相手へ思いを伝えようとする決意でした。
当時の本人は自分から告白するのは恥ずかしいとも話しています。
歌では、自分が現実にできることより一歩先へ、主人公を進ませていたのです。
翌2017年の「なみだ」は、レーベルが初の失恋ソングとして紹介した曲です。
柳沢亮太が制作を手がけ、SUPER BEAVERの上杉研太と藤原広明も演奏に参加しました。
井上は、バンドとして一緒に音を出すような録音が初めてで、仮歌のように皆で録ることに胸が躍ったと振り返っています。
恋がかなう前の期待から、失った後の気持ちへ。
歌の題材が広がったこの曲には、演奏者と同じ場で歌を作る新しい経験も重なっていました。
後に「ナチュラル」で再び組む柳沢との関係を考えるうえでも、十代の大切な一作です。
2018年「ファンタジック」――元気な声だけでは届かない感情
次の転機では、井上自身が共演相手を求めました。
ヨルシカを聴いていた彼女は、n-bunaに制作を依頼します。
n-bunaが井上に感じていたのは、明るい印象と、少しかすれを含む声の個性でした。
そこに陰りのある曲も映えると考え、本人の心境も聞きながら「ファンタジック」を作っていきます。
二人が話すうちに、外からは明るく見える井上にも、暗い部屋に一人でいるような感覚があることが伝わりました。
この内面が歌詞に入ったことで、歌う井上には新しい課題が生まれます。
前向きな曲として勢いよく歌うだけでは、切ない部分を取りこぼす。
本人は、その二つの感情をどの程度ずつ出すか、歌い方のバランスに悩んだと説明しています。
この曲で井上が向き合ったのは、一曲の中で、明るさも悲しさも失わずに歌えるかという課題でした。
声に新しい色を付ける前に、主人公が抱えている感情を一つに決めつけない。
初期から続く物語への関心が、歌い方の細かな選択にまで及んでいます。

ギターを持つ井上苑子。
出典:UNIVERSAL MUSIC JAPAN
2019年『白と色イロ』――違う人物を、大げさに演じ分けずに歌う
翌年の『白と色イロ』では、曲ごとに雰囲気の違うアルバムを作ろうとしました。
井上自身も声の変化を感じていた時期です。
十七歳の自分を表す「白」から、さまざまな色へ広がるという題には、まだ変化できるはずだという意思を込めています。
曲順も、ライブでどういう流れで歌いたいかを考えて組みました。
アニメ『川柳少女』のオープニング曲「コトノハノオモイ」も、その十二曲の一つです。
一枚を一色の気分でまとめるのでなく、違う人物や曲調へ移りながら歌うアルバムの前半を担っています。
中盤には、前年にMrs. GREEN APPLEと共演した「点描の唄」のソロ版を置きました。
共演時には失敗できないという緊張がありましたが、声を出したとき、自分を信じられる感覚も得たといいます。
その思い入れのある歌を、今度は一人で引き受けました。
「点描の唄 feat.井上苑子」――2018年の共演版
ピアノだけの伴奏になったソロ版では、録音しては聴き返し、言葉を丁寧に届ける作業を繰り返したそうです。
難しかったのは、二人の視点を一人で歌うことでした。
声を大きく変えると不自然になるため、気持ちの違いをわずかに持ち、男性側には相手を支える感覚を置いたと説明しています。
曲ごとの声の幅が広がる一方で、一曲の中では演じ分けを控えるという選択もできていたのです。
「点描の唄」――2019年の井上苑子ソロ版
同じ盤の「くれたもの」では、歌いかける相手も変わります。
当初、父の仕事に憧れる娘の歌を求められたものの、井上には音楽の仕事をする母のほうが具体的に思い浮かびました。
そこで母への感謝を土台にしつつ、聴く人は別の大切な相手を思える言葉を探します。
誰の歌にもなるように薄めるのでなく、自分の実感を持ったうえで、受け取る人の余地を残そうとしたのです。
2024年「一縷」と「078」――相手の経験と、自分の記憶
2024年の「一縷 feat.長谷川怜央」は、デュエットの相手が決まってから曲を書くという、初めての順序で始まりました。
男性とのデュエット曲を自作するのも初めてで、井上は旋律をどう作るかに迷ったそうです。
卒業を主題にすることは決まっていましたが、共演する長谷川の話を聞くと、二人の経験は大きく違っていました。
井上が思い出すのは、友人と離れる不安や寂しさです。
一方の長谷川は、未来に向けて動き出せる喜びを感じていました。
井上は両方の感情を曲に持ち込み、自分の寂しさだけで別れの意味を決めない歌を作ります。
「点描の唄」では、すでにある歌の二人の気持ちを一人で表しました。
「一縷」では二人の違いを受け取って、歌そのものを書く立場になったのです。
続く「078」は、生まれ育った神戸の市外局番を題にした曲です。
三宮駅前の待ち合わせ場所や、小学校近くの動物園、通っていたコロッケ店まで、町の記憶を言葉に入れました。
小さなころに好きだった男の子が、言葉を言い間違えていた思い出もあります。
初期には友人の相談や物語から恋の場面を集めていた歌い手が、ここでは自分の町に残る、固有の記憶をたどっています。
「一縷」で相手の卒業を知ることと、「078」で自分の町を振り返ることは、歌う人物の背景を以前より深く知ろうとする姿勢でつながっています。
2025年――昔の歌を持ちながら、今の自分を歌う
十周年の2025年、井上は「ナツコイ」のギター弾き語りも公開しました。
新しい曲では十代の恋の言葉をそのまま使いにくいと感じる一方、記念のライブでは若いころの曲も楽しんで歌いたいと話しています。
昔の歌を持ち続けることと、これから作る曲で何を歌うかは、それぞれ考えていたのです。
「ナツコイ」――2025年公開・弾き語り(抜粋)
ただ、この時期には思い通りに歌えない苦しさもありました。
本人は、ライブで全力を尽くしても自分では納得できず、もっと良い歌を届けたいと考えたことを、休止の理由として語っています。
2025年末で歌唱を伴う活動を休むという決断は、再び歌うためのものだと説明していました。
その年の秋に発表した「ナチュラル」は、「なみだ」以来となる柳沢亮太との制作です。
井上は喉への不安も伝えたうえで依頼し、自分の思いをまとまらない文章のまま送りました。
柳沢は、現在の井上が現在の自分を歌うことを主題に、その言葉を曲にしています。
完成した歌について井上は、歌っている自分をいつもより誇らしく思えそうだと話しました。
初期の恋の歌では、誰かが経験しそうな場面を、自分の声で生き生きと伝えていました。
そこから、相反する感情を同時に歌い、人物を演じ分けすぎない方法を試し、共演者の記憶も受け取ってきた。
「ナチュラル」では、その過程にいた本人の迷いも、歌う内容になっています。
十年分の声色を振り返ると、そのとき何を伝えようとしていたかも見えてきます。
歌詞の人物や相手をどう考えて言葉にするかは、井上苑子の歌い方で掘り下げます。

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