島爺の歌声はどう変わった?「ブリキノダンス」から自作曲、アニソンカバーへの15年

島爺 シンガー

2025年、島爺は「ブリキノダンス」を新たに歌い直した。その一方で、アニメソングを7曲集めた『AnisonGym』では、子どもの頃に心を動かされた音楽へ戻っている。「歌ってみた」から始めた人が、長い活動の末にまたカバーへ向かったのは、振り出しに戻ったからではない。自分で曲を作り、舞台で歌い、他の作家と録音を重ねた後で、既に誰もが知る歌をどう自分の声で鳴らすかを問い直したからだ。

島爺は「永遠の82歳」を名乗る歌い手だ。実年齢ではなく、かつて友人に「おじいちゃん」と呼ばれ、ネットの精神年齢診断で82歳と出たことから生まれた名義である。その愉快な設定の下で、歌う曲との距離は少しずつ変わった。初期の投稿、オリジナル曲を受け取った時期、全曲を自作した作品、そして原点への再接近を、本人の言葉と正規作品でたどる。

バンドで歌っていた人が、2011年に一人で投稿し始めた

島爺は高校を出た後、カラオケで歌を褒められたことから音楽へ深く入った。バンドでは初めからオリジナルのギターロックを作り、途中からギターも弾きながら歌った。バンドの解散後、「音楽は一生続ける」と考えて選んだのが、動画投稿だった。島爺名義での投稿は2011年秋に始まったが、バンド時代にも別名義で数曲を録音・投稿していた。ネットで歌う人になってから初めて創作に目覚めたわけではない。

その経歴を踏まえると、「ブリキノダンス」の熱量にも一つの背景が見える。日向電工の曲を自分の声で歌うというカバーでありながら、既にバンドでオリジナルを歌い、録音機材とミックスを扱っていた人の表現だった。2016年の初アルバム『冥土ノ土産』には、この代表的なカバーが収録された。かつてのバンドでは叶わなかったメジャー作品の発売を、本人は異なる形で実現したと受け止めている。声だけがネットから「本物の音楽」へ進んだのではない。もともとの音楽活動が、ネットという別の場所で続いていた。

島爺
2018年の島爺。写真出典:2018年の公演写真

『孫ノ手』では、既存曲を選ぶ人から「自分宛ての曲」を受け取る人へ

2017年の2枚目『孫ノ手』は、ファンへの礼を込めて、喜んでもらえる曲を選んだアルバムだった。「なんで生きてんだろうってすげえ思うんだ」から「生きろ」へ至る並びも、本人が「生」の文字を軸に整えた。既存曲を集めることは、無作為に人気曲を歌うことではない。別々の作者の言葉を、アルバムを通した一つの流れへ配置する仕事になった。

その中で「チェゲラナ」だけは、nikiが島爺のために書いた新曲だった。島爺は細かな歌唱指示を出さず、いつもの作風で作ってほしいと頼んだ。出来上がった曲を、本人は「歌ってみた」の自分のイメージをそのまま曲にしたようだと受け止めている。既存曲を探し、自分の声で成立させる段階から、作家が彼の声を前提に書いた曲へ向かう。歌う側と作る側の関係が変わり始めた。

ただし、書き下ろしが入ったからカバーを卒業したわけではない。島爺は、作り手の衝動や熱量が感じられる曲に惹かれると語っている。作者の違う曲を、自分の好みと歌でつなぐことは、その後も活動の核として残った。

録音で限界まで歌う声と、客席の前で成立する声

2018年の全国ツアーを前に、島爺は録音とライブの違いを率直に話した。「歌ってみた」の録音では音域や声量の限界まで使えるが、そのままの完璧さを公演で再現するのは難しい。けれど彼は、その違いこそライブの面白さだと考えた。スタジオの声を舞台で再生するのではなく、その夜の客席と作る歌へ重心が移ったのである。

この変化は、単に公演数が増えたという経歴ではない。録音で一度決めた声の形を唯一の正解にせず、ギターを持って歌い、観客から気軽に話しかけられる「島爺」として、その場に応答する選択だった。後に自分で曲を書くときも、舞台で歌う自分を想定した曲が生まれる。

2018年ツアー最終公演では、投稿で親しまれた「ブリキノダンス」と、ツアーを思って自作した「はじめに」が同じセットリストに並んだ。カバー曲「ままならない人生を」は原曲の作者へ敬意を示しながら弾き語り、終盤には「なんで生きてんだろうってすげえ思うんだ」をマイクなしで歌ったと公演記録にある。爆音のバンド、ギター一本、客席との会話。歌の場面が増えるほど、「あの投稿と同じ声を毎回出す」ことより、曲と聴き手に合わせて声の役割を変えることが必要になった。

2020年、自分の言葉と旋律を自分の声に渡す

2020年のミニアルバム『挙句ノ果』は、初の全曲自作曲を掲げた。全曲を単独で書いたという意味ではなく、「虚仮の一念」ではVACONと詞を共作し、作曲を島爺が担っている。そこを含めて、自分の歌う言葉と旋律に制作側として責任を負った作品だった。

曲ごとの出発点も異なる。「はじめに」はツアーのため、「生爺のテーマ」はアコースティックの催しのために書いた。「岐路と銃口」では旋律に言葉が収まらず悩み、旅先で触れた播州弁を取り込んだと本人が説明している。「気圧の所為」はガットギターによる一発録り。激しい歌を歌えるという既存のイメージをなぞるだけなら、これほど違う用途と規模の曲を一枚に並べる必要はなかったはずだ。

「虚仮の一念」では、以前から影響を受けていたVACONとの声の共存を目指した。ラップを取り入れたから急に技巧派になった、と片づけるのは惜しい。自分が曲を作ったうえで、相手の言葉と声を迎え、双方の個性が残るように歌を組み立てた点が新しい。

さらに「もいちど」はフォークソングを作りたかったことから生まれ、「明日へ」には前へ進むときの別れを託したと本人は記す。曲ごとに歌う相手も、必要な大きさも違う。2018年にライブのために書いた歌から、2020年には自分の内側のための歌、他者と声を分け合う歌まで、自作の目的が広がった。

2021年の『御ノ字』で、再び他人の曲を歌う意味

翌2021年の『御ノ字』には、自作曲「逆光」や、堀江晶太が作曲した「花咲か」などが並んだ。自作へ進んだ後も、他の作家の言葉や曲を歌う道を狭めていない。「不可避」では、島爺が自ら登場する実写ミュージックビデオも初めて作られた。弾き語りの姿を映像に出すことは、声だけで知られてきた「永遠の82歳」に、舞台上の身体を重ねる出来事だった。

堀江は2021年の対談で、島爺が発音の立ち上がりから減衰までを曲に応じて細かく選んでいると評した。島爺もそれを偶然ではなく、意識的な試行錯誤だと答えている。初期から声の勢いに惹かれた聴き手には、この細部は見落としやすい。何を歌うかという選択の裏で、言葉一つの置き方を変えられるようになったという本人の発見があった。

同じ年の弾き語りイベントでは、速いメロディの「逆光」を落ち着いた歩調に変えて演奏したという記録も残る。曲を変えずに編成と速さを変えれば、言葉が届く時間も変わる。動画投稿と大きなバンドの舞台に加え、ギター一本で自作曲を渡す場が活動に残っていた。『御ノ字』期の歌を、提供曲の増加だけで説明できない理由だ。

2025年、原点のアニソンを「今の自分」で歌い直す

2025年の『AnisonGym』を作るとき、島爺は自分の歌の原風景がアニソンにあると振り返った。子どもの頃に心を動かされた曲を含め、候補を約20曲から7曲へ絞り、堀江晶太らに編曲を託した。昔の曲をただ懐かしく歌う企画ではない。各曲に合わせて作り替えられた伴奏の上で、原曲への敬意と自分の声の違いをどう両立するかを試した。

「ウィーアー!」では、きただにひろしの歌を真似したり競ったりせず、自分らしくまっすぐ歌うことを選ぶ。一方、「ウタカタララバイ」はAdoの表現量を単に追いかけず、ロックに振り切った編曲に応じて何日も録音を重ねた。「心絵」では、長年培った技巧に逃げず、若さや青さをどう残すかが難しかったという。同じカバーでも、原曲と自分との距離の取り方は曲ごとに違う。

島爺は「only my railgun」で、単に音量を抑えれば弱い表現になるわけではないとも話した。声のかすれや息の量を含め、狭い音域の中に細かい情報を残す必要があった。強く歌う曲を集めたアルバムに見えても、一曲ごとに解くべき問題は別だったのである。かつてのカバーは、好きな曲を自分の声へ引き寄せる行為だった。今回は、原曲の記憶、編曲家の仕事、今の自分の声を同時に受け止める仕事になった。

島爺
2025年の島爺(左)と堀江晶太。写真出典:2025年の対談写真

同年には「ブリキノダンス」の新歌唱版も発表した。初期の代表曲を同じ歌手がもう一度録音した事実は、この15年を結ぶ節目になる。ただし、録音や編曲条件が異なる二つの版を比べて、声の高さや身体能力がどう変わったかまで断定はできない。確かなのは、長く活動した後も、彼がかつての持ち歌を今の作品として作り直すことを選んだ点だ。

2026年の新曲「灯火」は、164が歌詞・曲・編曲を担い、ライブで客席と声を合わせる部分を持つ。バンドから一人で投稿し始めた歌手が、作家との共作、自作、カバーを経て、また人に書いてもらった歌で客席と向き合う。島爺の変遷は「カバーからオリジナルへ」という一本道ではない。誰の歌を、どこで、誰と成立させるかを選び直し続ける歴史だ。そうした曲ごとの発音や強弱の判断は、島爺の歌い方で掘り下げる。

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