りりィの歌唱変遷|ヒット曲の主役から、二人で分け合う歌へ

1974年シングル「私は泣いています」のジャケット写真 りりィ
1974年シングル「私は泣いています」のジャケット写真

りりィの伴奏をしていた齊藤洋士は、気づけば二人の歌う割合が半々ほどになったと振り返っています。
客はりりィを聴きに来ているのに、と戸惑う相方に、彼女は二人組にしようと提案しました。
「私は泣いています」の大ヒットから、明るい歌の表情を加え、やがて歌の中心を分け合うまで。
りりィの歌唱を、ステージで担うものが広がった歩みとしてたどります。

1974年、大ヒットがライブの主役を変えた

りりィが歌い手として見いだされた頃から、自分で作った歌と、その声は強く結びついていました。
プロデューサーの寺本幸司が、目の前で歌ってもらった「イエスタディ」に心を動かされ、続いて自作曲を尋ねると、りりィは「愛」を歌います。
寺本が一緒に仕事をしたいと伝えたのは、その歌を聴いたときでした。
「愛」は1972年のデビューアルバム『たまねぎ』の冒頭にも置かれています。

寺本には、1973年の「心が痛い」でライブを締めたいという考えがありました。
りりィの心の叫びだと感じ、大切にしていた歌です。
この曲はバンドで演奏する必要があると考え、一緒に音楽を作る仲間を集めるきっかけにもなったといいます。
そこへ翌年、「私は泣いています」が大ヒットし、観客が待つ代表曲が加わりました。
自分の内面を強く出す歌と、広く親しまれた歌の両方をステージに置くことが、新しい課題になったのです。

心が痛い 正規配信音源(1973年『ダルシマ』収録)

「私は泣いています」ができた夜、寺本はりりィから呼ばれて歌を聴き、帰りのタクシーでも口ずさんでいたといいます。
それまでとは違う親しみやすさを感じながらも、演奏まで歌謡曲の形に収めたいとは考えていませんでした。
りりィにベースを持たせて歌わせるイメージもあり、そのまま既成の歌手像へ当てはめようとはしていなかったのです。
売れた歌を中心に据えつつ、本人の持ち味とバンドの音楽をどう生かすか。
代表曲の誕生は、ライブを作る側にとっても、歌の置き方を選び直す転機でした。

りりィの肖像写真を使用したアルバム「タエコ」のジャケット
1974年発表『タエコ』のジャケット。
画像出典:写真掲載元

1976年、明るい歌の表情が加わる

「オレンジ村から春へ」は、資生堂の春のキャンペーンソングとして生まれました。
寺本は、従来とは違う、明るく夢のあるりりィが出た曲として評価しています。

この曲が加わり、「私は泣いています」も、明るい歌もあるステージが作れるようになりました。
ヒット曲で定着した印象の隣に、別の歌の表情が置かれたわけです。
悲しみを担う代表曲だけで、りりィの歌を捉えきれなくなります。

寺本にとって、この依頼は意外なものでもありました。
ヒットの後にどんな世界を作るか考えていた時期に、CMのための新しい歌が届いたのです。
明るい曲を一つ足したことで、過去の歌を外さずに、ライブ全体の表情を広げられました。

オレンジ村から春へ 正規配信音源(1976年原盤・1981年ベスト盤収録)

活動を再開して、音楽を楽しむところへ戻る

りりィ自身は、制作を続ける中で、納得できる曲と、アルバムを埋めるために作る曲の間で苦しんだ時期も話しています。
その後、子育てを中心に過ごす時間を経て、少しずつ音楽へ戻っていきました。
再開した頃には、すぐに自分のオリジナル曲を歌う気持ちにはなれなかったそうです。

そこで始めたのは、カバー曲を歌うことや、バンドでドラムを叩くことでした。
代表曲を歌う人へ直ちに戻るより、まず音楽そのものを楽しむところから入り直しています。
後に自分の歌を届ける場所も、小さな会場へ移っていきました。
この歩みを知ると、二人組の活動は、単に伴奏の人数を減らした結果ではなかったと分かります。

1999年から、二人の歌をステージの中心へ

りりィは1999年から、齊藤洋士との「りりィ+洋士」で活動しました。
二人組の名前が生まれる前に、ステージで歌を受け持つ割合が変わっていました。

本人によると、出会いは二人ともボーカルとして参加した別のユニットでした。
その活動が続かなくなった頃、りりィはバンドで歌うことに疲れを感じ、ギター一本のようなアコースティックな形で歌いたいと考えていました。
最初は齊藤に手伝ってもらい、二人のハーモニーが好評だったことも、ツインボーカルへ進むきっかけになったそうです。

齊藤によると、もともとはりりィの後ろでギターを弾いていました。
ところが、自分が歌う場面が増え、いつの間にか二人の割合が半々ほどになったそうです。
そのことを齊藤が気にしたとき、りりィは二人組として活動することを提案しました。

ギター伴奏を受けて一人が歌う形から、二人の歌い手が中心を担う形への変化です。
後年のライブDVDには、18歳のときに作った「愛」、二つの代表曲、そして「時の流れ」「残そう」などが並びます。
新しい二人組は過去の歌を捨てる場所ではなく、初期の作品も現在のレパートリーとして歌う場所になっていました。

2008年の取材で、りりィは昔の曲には当時の気持ちになれず、歌いにくいものもあると話しました。
一方、「私は泣いています」と「オレンジ村から春へ」は歌っているといいます。
特に前者は、毎回強く感情を持ち込まなくても歌える曲として挙げていました。
すべての過去をそのまま再現するのでなく、現在の自分が歌える曲を選びながら、初期のレパートリーと付き合っていたのです。

映画『りりィ 私は泣いています』の「りりィ+洋士」ライブ写真
映画『りりィ 私は泣いています』の「りりィ+洋士」ライブ写真。
画像出典:写真掲載元

私は泣いています ――「おんがく白書」ライブ&インタビュー(2011年DVD発売)

客の顔が見える場所で、二人の歌を届ける

りりィにとって、小さな会場はやがて、客とやり取りしながら一緒に時間を作る場所になりました。
昔は客の顔を見ると歌えなかったのに、後年は顔が見えないほうが怖い。
本人が語ったこの変化には、歌う側から聴く側へ一方的に届けるだけではない、ライブの楽しさが表れています。
小さな場所で歌い続けるうちに、その距離が楽しくなったというのです。

後年のステージを記録した『りりィに会いたい』には、2013〜2015年の四公演が収められています。
二人のレパートリーには、りりィが詞を、齊藤が曲を作った「時の流れ」もありました。
昔の曲を歌う一方で、作詞と作曲を分け合った歌も、そのステージを支えていたのです。

同じ作品に収められた「残そう」では、りりィは手話も取り入れていました。
齊藤は後年、手話教室で学んでいたことを振り返り、多くの人に伝えたい思いがあったのだろうと話しています。
これは相方の受け止め方ですが、二人のライブで何を届けようとしていたかが分かる具体例です。

この歌の場に心を動かされた一人が、映像を撮り続けた髙間賢治でした。
髙間は2013年、代表曲以外をほとんど知らずにライブへ足を運び、初めて聴く歌にも感動したといいます。
齊藤がりりィの歩んできた人生を語るMCも、その体験の一部でした。
有名な曲を聴けたという満足だけでなく、二人が作る時間全体を残したいと思い、撮影を申し出たのです。

最初に訪れた公演の客は、15人ほどだったそうです。
その小さな場で受け取った感動が、後のライブDVDや映画へつながりました。
髙間がライブの魅力として挙げたのは、心地よい幸福感です。
初期の切実な歌で知られた人が、二人の歌と語りで、聴き手を穏やかに包む時間も作っていました。

変わる声にも残った、りりィらしい音色

声そのものにも、変わった面と残った面があります。
音楽ブログを書くぽぽんたは、初期のレコードと晩年の歌唱を聴き比べ、「私は泣いています」の強いかすれに対し、後年にはかすれの少ない、余裕を感じさせる発声が聴かれたと記しています。
その一方で、もともと中音域にあった独特の音色は変わらなかった、とも記していました。
これは一人の聴き手による比較ですが、年齢とともにすべてが別の声になった、という捉え方とは違います。

ヒット曲で知られた強いかすれ、明るい曲で加わった表情、二人で担うようになったステージ。
その歩みの中にも、中音域に本人らしさを聴き取る耳がありました。
後年の歌を昔の声の再現としてだけ聴かず、残った音色と新しい歌の場の両方からたどることができます。

声のかすれと繊細さ、曲の中で変わる響きの表情は、りりィの歌い方で取り上げています。

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