2023年、大貫妙子は野外公演で「都会」を歌い、同年の東京公演では「新しいシャツ」も歌いました。翌年の取材では、若い頃は歌詞に表現力が追いつかなかったが、今になってようやく歌えるようになった気がする、と話しています。
かつては自分の声が好きになれず、シュガー・ベイブやソロ初期の歌を聴くと、消してしまいたくなるほどだった人です。その大貫が、昔の曲を歌い続けている。声を張ることから、自分の間で歌うことへ。さらに、自分に寄り添う伴奏だけでなく、独立した相手の演奏を聴いて歌うことへ。変わってきたのは、声を曲の中に置く方法でした。
1977年「都会」――好きな音楽と、歌いやすい音楽は違った
若い大貫が憧れたのは、ジャニス・ジョプリンのような歌手でした。シュガー・ベイブやソロ初期には、今より太い声を出そうとしていたと振り返っています。しかし、目指す声を手本にするほど、自分の声との違いを意識することにもなりました。
山下達郎と一緒に舞台に立った経験も、その思いを強くしました。大貫によれば、山下の歌に圧倒され、自分の歌が客席へ届いていないと感じていたそうです。当時はステージの音響機材にも制約がありました。それでも、歌への苦手意識は40代の初めまで続きます。
シュガー・ベイブを離れてソロ作品を作ると、今度は自分が好きな音楽を選べました。1977年の『SUNSHOWER』では、坂本龍一らと、当時惹かれていたジャズやソウルに近い音を追います。クリストファー・パーカーが参加できる期間に合わせて、録音は約20日間。大貫は後年、若い演奏家たちの腕前に驚いたと話しました。
ところが、望んだ演奏ができたことと、自分の歌に納得できたことは別でした。いくつかの曲はキーが高すぎたとも振り返り、あの演奏なら、歌のない作品でもよかったかもしれないとまで言います。音楽への憧れが、そのまま自分の声に合う歌になるとは限らなかったのです。
「都会」は、その『SUNSHOWER』に収められた曲です。1977年のスタジオ録音には坂本の編曲と大貫の歌が残り、冒頭の2023年の野外ライブでは、同じ曲を後年のバンドと歌っています。会場も演奏者も違う二つの記録から、大貫がかつて厳しく振り返った曲を、46年後にも歌っていたことが分かります。
大貫は後に、聴き手が『SUNSHOWER』を好む理由も、自分の評価とは違うのかもしれないと認めています。曲を残したい人がいる。一方、歌った本人には、別の歌い方を探す理由が残っていました。
弦楽四重奏で見つけたのは、大きな声よりも「自分の間」
大貫は後年、自分の声を受け入れ、その声が生きる音楽を作ろうと考えるようになったと話しています。その道筋を示す経験の一つが、1987年に始めた弦楽四重奏との「ピュア・アコースティック」でした。
バンドでは、もともと多くないと感じていた声量を求められることがありました。弦の奏者たちと歌うと、決まったビートに声を押し込むより、全員の呼吸や間で曲を進められます。大貫自身、この経験によって歌に丁寧になれたと振り返っています。

ただし、最初から息が合ったわけではありません。クラシックの奏者たちとは、言葉にしなくても通じる音楽上の感覚が違い、初めは演奏を一緒に進めるのも難しかったそうです。自分の声を生かすとは、好きなように歌えば済むことではない。どこで強くし、どこで待つかを、共演者と一緒に作ることでした。
1987年発売の会場限定盤『PURE ACOUSTIC』には、「新しいシャツ」と「突然の贈りもの」が収められています。二曲はずっと後の2023年のコンサートにも登場します。同じ歌を長く歌い続けながら、共演する人や編成を変えてきた歩みが、この二曲にも残っています。
舞台に立つ怖さが一度に消えたわけではありません。大貫は40代の初めまで、客席との間に幕が下りているように感じていたといいます。何度もステージに立つうち、あるときその感覚が変わった。そう振り返る彼女にとって、弦との共演も、長い試行錯誤の一部でした。
2007年には、自分の若い頃の声には張りや伸びがあった一方、今の声には言葉を伝えるための情報が増えたと話しています。その声は、生の楽器の中に置くほうがしっくりくる、とも。自分の声を受け入れることは、伴奏も歌い方も一つに固定することではありませんでした。声が変われば、その声と一緒に鳴る音楽についても考え直していたのです。
2010年『UTAU』――伴奏者も、自分とは別の歌を歌う
自分の間で歌えるようになった後、大貫は別の難しさを選びます。坂本龍一のピアノと二人だけで向き合う『UTAU』です。2010年発売のアルバムでは、坂本が弾き、大貫が歌いました。
それまで共演した演奏者たちは、大貫の得意な歌い方に寄り添ってくれました。坂本のピアノは違います。大貫が自分のタイミングで先へ進むと、二人の音楽が離れてしまう。彼女は、坂本の旋律を聴きながら、自分の歌い方も失わないようにするのが難しかったと話しています。
「a life」は、この作品のために二人で作った曲です。大貫は、坂本から届いた思いのほかポップなメロディーに驚き、録音の二日前になっても歌詞が書けませんでした。最後に選んだのは、自分が大切にしている日々の暮らしを、そのまま言葉にすること。歌の課題が伴奏との呼吸だけでなく、その曲に置く言葉にも及んでいたことが分かります。
アルバムを携えた2010年のツアーも、ピアノと声だけ。大貫は、自分の歌が崩れれば公演そのものが成り立たないと感じ、試練として受け止めました。けれど、そのツアーを経た後には、歌うことが楽になったと語っています。弦との共演で得た丁寧さを保ったまま、今度は自分の思いどおりには動かない相手と歌う経験を積んだのです。

ピアノと声が曲の中でどう受け渡しをしているかは、大貫妙子の歌い方で「a life」の一場面に絞って扱っています。
2023年、昔の歌詞に「今の年齢」で向き合う
「ピュア・アコースティック」は2009年の公演後にいったん途切れ、2018年に再開しました。2018年の正規ライブ盤にも「新しいシャツ」と「突然の贈りもの」が収録されています。弦やピアノと歌う経験は、若い頃の一時的な回り道ではありませんでした。
2023年11月の東京公演では、その二曲を今度はバンドと演奏しています。公演を収めた『Taeko Onuki Concert 2023』が発売されたのは翌2024年5月です。1987年の会場限定盤と2023年の公演は、発表年だけを並べた同条件の声の比較ではありません。それでも、同じ曲を違う年齢と編成で歌い続けてきたことを確認できます。
大貫は2024年、この二曲の歌い方は30代の頃とは違うと話しました。若い頃は言葉に表現力が追いつかなかったが、今は語るように歌うほうが届くと分かった、と。昔の歌詞を「この年齢で歌ってよいのか」とためらうこともあったそうです。しかし、今の自分と言葉に正直に向き合えばよいと考えるようになりました。
同じ「新しいシャツ」を歌うときも、昔の歌い方をそのままなぞろうとはしていません。曲を書いた当時には届かなかった言葉の意味に、今の歌手として向き合っています。
2023年のバンド公演には、もう一つ興味深い選択がありました。「船出」や「Volcano」などでは、過去に大貫自身が重ねて録ったコーラスを、その日の演奏に組み合わせています。彼女によれば、同じ旋律でも別の人の声に替えると、曲の重なり方が変わってしまう。以前は自分の声を嫌った人が、今は自分の録音した声を、曲に必要なアンサンブルの一部として選んでいるのです。
『SUNSHOWER』の録音に向けた大貫の厳しい評価と、「都会」を今も歌っていることは両立します。弦の呼吸を聴き、坂本のピアノに応え、今の年齢で歌詞を語る。自分の声が好きになれなかった頃から変わったのは、声を無理に別のものへ近づけることよりも、誰と、どんな間で、何を伝えるために歌うかという選び方でした。







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