アダム・ランバートの歌声の変遷|「全部を歌う」焦りから、声の出番を選ぶまで

2014年、グラスゴー公演でのアダム・ランバート アダム・ランバート
marcen27 from Glasgow, UK / CC BY 2.0

Queenと歌い始めたころ、アダム・ランバートは曲の中で歌える音をすべて歌おうとしていた、と2026年に振り返っています。
フレディ・マーキュリーの歌を知る客席に受け入れられたい気持ちから、声で自分を証明しようとしていたのです。

ところが2015年のソロ作品では、歌唱力を見せることよりも、曲の雰囲気や声色を大事にしたいと話しました。
それで高音や力強さを捨てたわけではありません。
2026年の『ADAM』には勢いの強い「EAT U ALIVE」があり、本人も大きく歌う瞬間を今なお楽しんでいます。

変わったのは声の限界よりも、一曲のどこで力を使い、どこで引くかを決める余裕でした。
テレビ、Queenの大きな会場、クラブの曲、ミュージカルの舞台を経て、その選び方がどう生まれたかを追います。

2009年|大きな声を見せる一方、弱さも歌っていた

アダムは『アメリカン・アイドル』に出る前、ミュージカル『ウィキッド』などの舞台で働いていました。
テレビのオーディションを受けるときには、通過すれば舞台の仕事を辞める必要があり、本人にとって大きな賭けでした。
毎週の出演では、自分にできることを見せたい気持ちと、大勢の人に評価される怖さが同時にあったと振り返っています。

番組で準優勝した2009年、デビュー作『For Your Entertainment』が出ます。
一曲で鮮やかな印象を残せる声と舞台経験は、彼の強みでした。
ただ、最初のアルバムを力を見せる歌だけで片付けることもできません。

収録曲「Whataya Want from Me」では、相手に求められていることが分からず、関係を壊したくない人の不安を歌います。
強く歌える人が弱い立場の言葉も引き受けていたことを覚えておくと、後年の「抑える歌い方」が突然現れたものではないと分かります。

2009年5月のアダム・ランバート
2009年5月のアダム・ランバート。
写真:Daniel Than / CC BY-SA 3.0

2012~14年|Queenの客席で、声を証明しようとした

2009年の番組決勝でブライアン・メイ、ロジャー・テイラーと共演した縁から、アダムはQueenとの公演へ進みました。
2012年には複数の公演を行い、2014年には本格的なツアーが始まります。
同年6月19日のシカゴ公演では「We Will Rock You」も歌いました。
自分の曲を初めて客席に届けるのとは条件が違います。
そこにいたのは、フレディの声でQueenの曲を長く聴いてきた人たちでした。

初期のQueen公演を振り返ったアダムは、受け入れてもらうため、歌える音を全部歌おうとするほど力を入れていたと認めています。
公演後には評判も検索し、好意的な声と批判の両方を見ていました。
歌う力が足りないという自己診断ではなく、自分がこのバンドの曲を歌ってよいのかという重圧の話です。

曲の気持ちを考え、フレディに似せる部分と自分の工夫を分ける方法は、アダム・ランバートの歌い方で「Somebody to Love」などを通して扱っています。
ここで重要なのは、その工夫が最初から落ち着いてできたのではなく、まず客席の前で自分を認めてもらおうと力んだ時期があったことです。

2015年|証明のための高音から、曲に合う声色へ

Queenとの活動を続けながら、アダムは3作目のソロアルバム『The Original High』を作ります。
このとき本人が望んだのは、仕事のない日に友人と行くクラブで流れているような音楽でした。
歌えることはすでに伝わったから、今度は曲の雰囲気、声の質感、色合いを大切にしたいと説明しています。

この新作へ向かう前には、何を歌うかをめぐる選択がありました。
2作目の『Trespassing』の後、所属レーベルから1980年代の曲をカバーするアルバムを提案されましたが、本人は受け入れませんでした。
新しいレーベルで作った『The Original High』は、自分が普段聴く音楽と、歌手として発表する音楽を近づける作品になったのです。
すでによく知られた声をどこへ向けるかを、活動の形から選び直していました。

アルバムの「Ghost Town」では、都会へ夢を持って来た人が、望んだものを得られず空しさを抱く気持ちを歌いました。
Queenの公演で大勢の客席へ声を届けていた時期に、ソロでは自分の生活に近い、暗さのあるダンス曲を選んだのです。
大声を出す場面が減ったから単純に「大人の声」になったのではなく、何を歌いたいかに合わせて曲の作り方から変えています。

それでも、アルバムを静かな曲ばかりにはしませんでした。
リズムを重視した曲がそろったあと、本人は大きく歌い上げる曲も必要だと考え、「There I Said It」を加えたと話しています。
強い声を封じるのではなく、アルバムの中でその声が生きる場所を選ぶ。
2015年の変化を読むなら、この一曲の追加まで含めたいところです。

2015年、ノッティンガム公演でのアダム・ランバート
2015年、ノッティンガム公演でのアダム・ランバート。
写真:Mark Kent / CC BY-SA 2.0

2024年|低い声を試し、舞台では場面ごとに歌い分ける

その選択は、歌を小さくする一方向には進みませんでした。
2024年のEP『AFTERS』で、アダムは自分の声の低い部分を以前より掘り下げたと話しています。
もともと好きだったハウス音楽を、夜のクラブで流れる曲として作るための試みでした。

2015年にクラブの音楽へ近づいたときと違い、EP全体では声の低い部分を使うこと自体を、本人が新しい実験として語っています。

そのために参照したのは、音の重いダンス曲だけではありません。
クリスタル・ウォーターズのような、ソウルの感覚を持つ1990年代のハウス歌唱も好きだったと話し、「WET DREAM」にはその楽しさがあると説明しました。
低く歌うことは、高音の代わりを探すためではなく、その曲のリズムや気分に声をなじませる選択でした。

Queenと活動を続けた時間も、こうした試みの支えになっています。
本人は、長く歌手として仕事を続けたこととQueenでの経験が、自分にもここに居場所があるという自信をくれたと話しました。
初期には受け入れられるために声を張った舞台が、後には別の声を試す余裕にもつながっていたのです。

同じ年、ブロードウェイの『キャバレー』では司会者(Emcee)役を演じました。
歌手自身として曲を発表するのではなく、場面ごとに姿を変える一人の人物を演じる仕事です。
アダムによれば、陽気で滑稽な歌、繊細な歌、バラードの「I Don’t Care Much」では、歌う高さも声の使い方も変わります。

その変化には、役の物語も関わっていました。
本人は、この上演の司会者が、華やかに姿を変えて客を導く一方、後半には抑圧を避けるため周囲へ溶け込もうとする人物だと説明しています。
同じ人物が違う顔を見せる舞台では、一つの得意な声だけで通すより、その場面に合う声が必要になる。
ソロで曲ごとに選んできた表情を、今度は役の移り変わりに沿って使う仕事になりました。

10代のころに歌の先生と『キャバレー』の曲を歌い、テレビに進むまで舞台で働いていた彼にとって、この役は以前から望んでいたものでした。

2026年|大きく歌うことも、引くことも自分で選ぶ

2026年のアルバム『ADAM』で、アダムは再び力の強い曲を前に出しました。
「EAT U ALIVE」を先に発表した理由には、自分には今もロックスターの気持ちがあると示したかったことを挙げています。
この選曲からも、2015年の「声の技を見せる段階は終えた」という発言が、高音や迫力との決別ではなかったと分かります。

一方で、本人はこの作品に、息を交えた軽い声や低い部分を使った、陰りのある歌もあると話しています。
『ADAM』には、5年間続いた関係が終わった翌週に作った「AM I OK」も入っています。
激しい曲だけでは表せない気持ちが、新作のもう一方の柱です。

Queenの演奏は音量も熱量も大きく、アダム自身、そこで歌うと力を込めて声を通す感覚になると説明しています。
本人は、客席との距離が近いソロ公演では、声の細部までさらされると感じています。
どちらか一方が現在の「本当の声」なのではなく、曲と場所に応じて両方を使っています。

2009年にも弱さを歌う曲はありました。
それでもQueen初期には、批判を受ける中で歌える音をすべて出そうとしていた。
2015年にソロで雰囲気を選び、2024年には低い声と舞台の役を試し、2026年には激しい曲と軽い声の両方を新作に残しました。

力強い声が消えたことが、アダムの変化ではありません。
力を見せなければ自分を証明できないという焦りから離れ、どの曲でどんな声が必要かを決められるようになったことが、彼自身の証言から見える変遷です。

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