小坂忠の歌唱変遷|「機関車」の歌い直しと、今の歌への思い

小坂忠の対談掲載写真(2019年掲載、Billboard JAPAN) シンガー
小坂忠の対談掲載写真(2019年掲載、Billboard JAPAN)

1975年の『ほうろう』は、小坂忠が自分の歌い方を見つけた作品でした。
ところが後年、その録音を聴き直した本人は、当時の演奏に自分の歌がまだ追いついていなかったと感じます。
そこで生まれたのが、演奏を残して歌だけを録り直した『HORO 2010』でした。
自分の原点を大切にする人が、なぜその歌い方を変えようとしたのか。
初期の迷いから、後年の声への自信までをたどります。

「機関車」(1975年「ほうろう」収録音源)

コピーなら歌えても、自分の歌い方は分からなかった

ソロで歌う前の小坂は、洋楽をコピーして経験を積んでいました。
『記憶の記録』の取材では、ドアーズの曲ならジム・モリソンのような声を出すことを考えていたと振り返っています。
ところがザ・フローラルでオリジナル曲を録音する時には、困ってしまったというのです。
曲はあっても、どのように歌えばよいかのお手本がない。
声を似せることと、自分の歌を作ることの間には、埋められていない隔たりがありました。

1971年のソロ・アルバム『ありがとう』でも、答えはまだ決まっていません。
2018年の松任谷正隆との対談で、小坂は、好きだったジェイムス・テイラーに影響された歌い方が、本当に自分に合うのか疑問だったと話しています。
一緒に演奏していた松任谷にも、当時の小坂は、ぼそぼそと歌う人という印象だったそうです。

後にソウルフルな歌手として知られる人が、最初からその表現に迷いなく向かっていたわけではありません。
好きな音楽を取り入れながら、それが自分の歌になるかを確かめていた時期でした。

「機関車」で、抑えていた感情を表へ出す

1975年の『ほうろう』では、小坂の好みをよく知る細野晴臣がプロデュースを担当します。
松任谷との対談で、小坂は、細野がアルバムの形を作ってくれたことで、自分もその中に乗れたと説明しました。
松任谷も、この作品を一緒に作って初めて、小坂にはこんな面があったのかと驚いたそうです。
本人の手応えと、近くで演奏した人の印象が、ともに変わった作品でした。

その違いを具体的に語っているのが「機関車」です。
同曲は『ありがとう』にも収められていますが、細野の発案で『ほうろう』でも歌い直しました。
小坂はARBANの取材で、1971年には感情を抑え、1975年には思い切り感情を込めたと話しています。
同じ言葉とメロディーでも、どこまで気持ちを表へ出すかを変えていたのです。

細野が用意した音楽に合わせ、歌い方も変わったという説明には、伴奏と歌が一緒に作られていく関係が表れています。
先に完成させた唱法をどの曲にも当てはめるのではなく、好きだったソウルの感覚を生かせる演奏の中で、自分の歌を見つけていきました。

原点が出来ても、その後の舞台では迷っていた

ただし、名盤を作ったという評価だけで、この時期を順調な成功物語にはできません。
『記憶の記録』の評伝は、『ほうろう』も本人には、歌のスタイルが見え始めた段階だったと記しています。
原点を見つけたことと、それを自信を持って続けられることは、まだ同じではありませんでした。

2016年の内本順一の取材で、小坂は1975年の全国ツアーを振り返っています。
自分は『ほうろう』で見つけた歌を大事にしていた一方、共演するミュージシャンたちは新しい音楽へ向かっていた。
そこに孤独を感じたというのです。
長い移動と公演を重ねる大変さもありました。

自分の歌い方が見え始めても、舞台を楽しむところまでは届いていませんでした。

ゴスペルを経て、聴き手と時間を分け合う歌へ

1976年からゴスペルを中心に活動するようになると、歌う場所も変わりました。
ARBANの取材では、教会や学校、少年院など、自分の歌を知らない人の前へ出るようになったと話しています。
最初は怖さもあり、どうすれば心を通わせられるかを考えるようになったそうです。

これは、歌い方の型を覚えることとは違う課題でした。
自分の好きな音楽を歌えば、目の前の人がそのまま楽しんでくれるとは限りません。
内本の取材でも、小坂は、以前の「好きな人だけが聴いてくれればよい」という姿勢から、来てくれた人に楽しんでもらいたいという気持ちへ変わったと振り返っています。

2000年頃、細野にコーラスへ誘われたことから、以前の仲間との仕事が再び増えていきます。
その流れで生まれたのが、細野のプロデュースによる2001年の『People』でした。
小坂はこの録音をとても楽しかったと語り、作品自体も気に入っていました。
以前の音楽仲間から離れていた期間も、歌うことをやめていたわけではありません。
ゴスペルで歌い続け、聴き手への姿勢が変わった後に、また仲間との音楽を楽しめるようになったのです。

小坂忠と松任谷正隆の対談掲載写真(2018年掲載、撮影:高田梓)
小坂忠と松任谷正隆の対談掲載写真(2018年掲載、撮影:高田梓)。
画像出典:写真掲載元

2010年、若い演奏を残し、言葉の受け止め方を歌い直す

『HORO 2010』のきっかけは、1975年のマルチトラック・テープが見つかったことでした。
楽器や声を分けて収めた録音が残っていたため、当時の演奏を使い、小坂の歌だけを新しく録ることができたのです。
バンド全員が集まり直して、新しく演奏したアルバムではありません。

2019年の佐藤タイジとの対談で、小坂は、昔のギターやベースには、後年より荒いところがある一方、勢いがあると話しています。
若い演奏を、後年の整った演奏に置き換えたいわけではなかったのです。
そこへ、時間を重ねた自分の声で向き合うことに、歌い直す面白さがありました。

ARBANでは、昔の自分を若いと感じたのは、声だけでなく、言葉への理解も含めてだったと説明しています。
人生を経験することで、同じ言葉の感じ方が変わる。
その違いを歌に出したかったというのです。
初期の「機関車」で感情を抑えるか込めるかを選んだ人が、今度は、込める気持ちそのものの変化を歌おうとしていました。

さらにMusicVoiceの取材では、当時の演奏は素晴らしいのに、自分の歌はまだ十分に追いついていないと感じたことも明かしています。
自分の原点であることと、もう一度歌いたいところがあることは、矛盾していませんでした。
むしろ演奏を大切に思うからこそ、今の自分ならどう歌えるかを試したかったのでしょう。

2018年には、変えることを急がなくなった

2016年、デビュー50周年を迎えた小坂は、今の自分の歌が一番好きだと話しました。
若い頃には、どう歌えば自分らしくなるのか分からなかった人が、長く歌った後の表現を、自分で肯定するようになっています。

白いソファに座って話す小坂忠
小坂忠の取材掲載写真(2018年初出、撮影:山下直輝)。
画像出典:ARBAN

2017年の病気と入院を経て、2018年には『ほうろう』を曲順どおりに演奏する公演を行いました。
『HORO 2018 Special Live』は、その場の歌とバンドを収めたライブ盤です。
同じ作品へ戻るにしても、1975年の演奏に声を重ねた2010年盤とは、音楽の作り方が異なります。

この時期のMusicVoiceの取材で、さらに歌を変えていくかと尋ねられると、小坂は、もう自分のスタイルを作れたと答えています。
新しく変えようとは考えておらず、時間が経てば熟してくるだろう、という受け止め方でした。
もう一度録り直したいか、という問いにも、今は大丈夫だと笑って答えています。

機関車 『HORO 2018 SPECIAL LIVE』収録のライブ音源(2018年3月公演)

自分の歌を探すために模倣から離れ、名盤になった歌にも手を入れ、やがて変化を急がずに歌えるようになる。
『ほうろう』との付き合い方を追うと、原点を守ることが、いつも昔と同じ声を再現することではなかったと分かります。
小坂は同じ作品に戻りながら、その時々の自分の歌を確かめていました。

キーやビブラートを選ぶときの考え方は、小坂忠の歌い方で取り上げています。

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