ジェイムズ・ラブリエ(Dream Theater)の歌声の変遷|「今夜も歌えるか」から、息子と録る新しい歌へ

2024年、ミラノ公演のジェイムズ・ラブリエ シンガー
LittleBay25 / CC0

2005年、Dream Theaterのジェイムズ・ラブリエは、かつてのツアーを振り返って「次の夜も声が出るか分からなかった」と話しました。
よく歌えた翌日に、また苦しい公演が続く。
歌う本人が、自分の声を当てにできなかったのです。

それから17年後に発表したソロ作では、自宅スタジオで録った歌を聴かせています。
録音を担当したのは、息子のチャンスです。
作品はアコースティックギターと歌から作り始め、Dream Theaterの曲とは違う伴奏を選びました。

声を取り戻した先で、なぜ新しい歌の作り方へ向かったのでしょうか。
1992年のDream Theaterでの初録音、声に悩んだツアー、そして息子との制作をたどると、「昔の声に戻る」だけでは説明できない変化が見えてきます。

1992年|若い日の勢いだけではなかった『Images and Words』

ラブリエがDream Theaterに加わって初めて録音したアルバムが、1992年の『Images and Words』です。
「Pull Me Under」はその代表曲になりました。
本人は後年、この頃の自分を、勢いと興奮で歌っていた若い歌手だったと振り返っています。

一方で同じアルバムには、「Another Day」もあります。
初期の声を一つの高音曲だけで記憶してしまうと、彼が一枚の作品の中で異なる曲を歌っていたことを見落とします。

1994年の『Awake』には「The Mirror」が収められました。
この録音をした後、ラブリエの歌手生活に、録音からは予想できない出来事が起きます。

1994年末|一度よく歌えても、次の夜が分からない

ラブリエによると、1994年末に休暇先で重い食中毒に遭い、声を傷めました。
長く休むよう勧められたものの、バンドは『Awake』のツアー中で、本人は短期間で公演へ戻ったといいます。

問題は、高い音が一つ出るかどうかだけではありませんでした。
2005年の取材で彼が語ったのは、公演ごとに声の状態を予測できないつらさです。
調子のよい夜の後にも、不調の夜が続いた。
舞台へ向かうたびに、いつもの声を使える保証がなかったのです。

2006年、リオデジャネイロ公演のジェイムズ・ラブリエ
2006年、リオデジャネイロ公演のジェイムズ・ラブリエ。
写真:Rodrigo Della Fávera / CC BY 2.0

本人が「以前の感覚が戻ってきた」と振り返るのは2002〜03年頃です。
ヴィクトリア・トンプソンのもとで歌を学び直し、2005年には、声への自信を取り戻したと話していました。
これは本人の当時の実感であって、その後の全公演で不調がなくなったという意味ではありません。

彼が取り戻そうとしたのは、1992年の一曲を同じように出すことだけではない。
毎晩歌い、次の夜にも声を託せる感覚でした。

2005年|落ち着いて歌える場所と、残したい音を選ぶ

2005年、ラブリエはソロ作『Elements of Persuasion』を自分の名前で発表します。
マット・ギロリーと目指したのは、激しい音楽の中にも別の音色を入れることでした。
取材では、電子的な音やサンプルを入れた曲を好まない聴き手もいたと明かしています。
それでも二人は、歌詞や曲の気分を支えるなら使うと決めました。

声への自信が戻ったと語る一方で、自分の名前で作る音楽には、どんな声と音を置くかを考えていました。

その歌を録ったのは、義理の兄弟が持つ、水辺を見渡せるコテージでした。
録音機材を持ち込み、2004年11月に八日をかけて歌を収録しています。
Dream Theaterの次作の制作も進む時期でしたが、そこで歌っている間は気を散らすものがなく、落ち着いて集中できたと振り返っています。

歌った後の音作りにも、本人が深く関わりました。
リチャード・チキと曲の一部分ずつを聴き、どんな加工や響きが欲しいのかを相談する。
歌を録って終えるのでなく、聴き手に届く音まで自分の構想に近づけたのです。
後年の自宅録音にも共通する、自分に合う制作環境を選ぶ姿が、すでにこのソロ作にありました。

2013年|強い声と静かな声を、同じ録音へ残す

2013年のアルバムを語った取材で、ラブリエは若い頃の歌を「勢いと興奮」と振り返る一方、自分にできることと限界を知るようになったとも話しました。
限界を越えようとしていた若い日の自分とは、判断が変わったのです。

ただ、それは力強い歌をやめたという話ではありません。
同年の「Illumination Theory」の録音で、ジョン・ペトルーシはクリス・コーネルを思わせる強い歌を求めました。
ラブリエは体を動かして気分を高めます。
ところが録音担当のリチャード・チキが声を加工し、二人は笑いが止まらなくなりました。
ラブリエは一度部屋を出て、歌うために仕切り直したそうです。

録音室でのこの出来事は、彼が声を慎重に使うようになっても、強い表現に取り組んでいたことを伝えます。
何を歌えるかに加えて、曲が求める声をどう作るかへ、関心が広がっていました。

録る声に合わせた機材の選び方も、本人は具体的に説明しています。
以前は柔らかく歌う箇所と強く張る箇所で、別々のマイクを使っていました。
2003年から使っているというBlueberryでは、静かな歌から強い歌まで、一つのマイクで捉えられる点を気に入っていたそうです。

確かめるときは、マイクを通した声をヘッドホンで聴いた後、それを外して部屋で歌う声と比べる。
本人が選びたかったのは、声の強弱が変わっても、自分の声らしさを残せる録り方でした。

2022年|アコースティックギターと歌から、新しい曲を作る

次の転機は、本人の希望と偶然の再会から始まりました。
ラブリエは2019年頃から、次のソロ作では違うことをしたいと考えていました。
2020年、Dream Theaterの公演翌日に空港でポール・ローグと再会し、以前から話していた共同制作が動き出します。

二人は『Beautiful Shade of Grey』の曲を、アコースティックギターと歌から書き始めました。
ラブリエが子どもの頃から親しんだクラシックロックを、制作の出発点にしたかったからです。
制作を進めると、ギターと歌だけでは一枚を通して音に変化が足りないと感じ、鍵盤やドラムなどを加えました。
静かな編成を守ることより、曲ごとに必要な音を選んだのです。

「Devil in Drag」は、その作品から先に公開された曲です。

録音場所にも変化がありました。
息子のチャンスが地下室にスタジオを作ろうと提案し、完成した部屋で父の歌を録ったのです。
チャンスはドラムも担当しました。
ラブリエは、赤ん坊として抱いていた息子と、今は二人の音楽家として制作していることに驚いたと話しています。

ただし、息子に任せることは、音楽の方向まで説明せず委ねることではありませんでした。
ドラムについてはU2のラリー・マレンやレッド・ツェッペリンのジョン・ボーナムを例に出し、音数が少なくても力を伝える演奏を求めています。
チャンスとはその考えをよく話し合い、実際にドラムを録るときには、息子から父の視線を気にせず演奏したいとも言われたそうです。
父の希望を共有したうえで、奏者として自分の仕事をする。
歌を支える伴奏も、そのやり取りから作られました。

「Give and Take」も同じアルバムの曲です。
二つの映像は、かつての歌を再現した資料ではなく、ラブリエが新たに選んだ作品をたどる手掛かりになります。

2012年の公演で歌うジェイムズ・ラブリエ
2012年の公演で歌うジェイムズ・ラブリエ。
写真:Carlos Delgado / CC BY-SA 3.0

自分の声を信じることから、残す音を選ぶことへ

『Images and Words』の若い勢い、声を予測できなかった年月、録音室で強い歌に向き合った2013年。
そして2022年のソロ作では、曲の伴奏から選び直し、息子が録った歌を聴かせています。

1994年末の出来事を、後の作品すべての原因として結びつけることはできません。
アコースティックを選んだ理由として、本人が語ったのは、好きだった音楽への思いと、新しいことをしたいという意志です。
声への不安を経た歌手が、その後も自分の歌をどう作るか選び続けた、というのがこの歩みです。

一曲の中で人物によって声を使い分ける判断は、ジェイムズ・ラブリエの歌い方で扱っています。
ここでたどったのは、時期をまたいで歌う条件と作品の作り方がどう変わったかです。

2005年には、かつて次の公演を心配していたと振り返ったラブリエ。
2022年の作品には、息子が自宅で録ったその声が残りました。
若い日の録音を置き換えるためではありません。
自分で選んだ新しい曲に残す、今のラブリエの歌です。

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