マーヴィン・ゲイの「What’s Going On」では、主役の歌を追っていると、別の声が言葉を添えてきます。
その声も、マーヴィン本人です。最初から最後まで同じ旋律をそろえて歌うのではなく、違うタイミング、違う言い回しで歌った声が重なっています。
一人で歌っているのに、一人きりの歌には聞こえない。
この仕組みを知ると、彼の柔らかな声にも、裏声にも、もっと具体的な役割が見えてきます。マーヴィンは、どうやって自分の声を使い分け、それぞれを一曲の中に収めたのでしょうか。
自分の声を、三つに分けて考えていた
マーヴィンは1983年、自分には三種類の声があると説明しています。
荒々しい声、ファルセットと呼ばれる裏声、そして自然で滑らかな中音域の声です。
本人にとって、違いは声の高さだけではありませんでした。それぞれの声には、それぞれに合ったマイクの扱い方が必要だとも話しています。たとえば裏声を使うときには、マイクを近づける。
同じ距離で同じように歌えば、三つの声が同じように届くとは考えていなかったのです。

「柔らかい声の歌手」という印象だけでは、マーヴィンの歌を説明しきれません。
滑らかに歌う声があり、そこから荒さを出すことも、高い裏声へ移ることもできる。しかも、声を変えるたびに、聴き手へ届けるためのマイクの使い方まで調整する。
柔らかさは彼の大切な持ち味ですが、それだけを出し続ける歌手ではなかったのです。
二つの歌い方から、一つを選ばなかった
「What’s Going On」の重なる声は、二つの録音を聴き比べるところから生まれました。
マーヴィンは別々に歌った二つのテイクのうち、どちらがよいか確かめようとしていました。録音スタッフのケン・サンズは、比較用のテープを二本作る代わりに、一方の歌を左、もう一方を右に入れ、伴奏を中央に置きました。
これは、同じ歌声をコピーして左右に広げたものではありません。
二度の歌唱には、言葉を出すタイミングや節回しの違いがありました。一つだけ選べば消えてしまう違いが、同時に鳴ることで曲の面白さになったのです。
同じ制作に関わったボブ・オールソンも、マーヴィンが二つの歌を重ねた状態を気に入ったと振り返っています。
最良の一回を選ぶはずだった作業が、違う歌い方を一緒に残す発想へ変わりました。
主役の声が歌い、もう一つの声が少し違う言葉の運び方で加わる。そのため、一人の胸の内を聴いているようでもあり、誰かに呼びかけているようでもある。声を重ねるという録音の工夫が、歌の語り方そのものになっています。
自然に聞こえる歌にも、仕上げる順番がある
1973年の「Let’s Get It On」も、主役の歌と、それを囲む声を分けて考えると面白い曲です。
録音を担当したアート・スチュワートによれば、リード・ボーカルは一度の歌唱で録られました。しかし、曲の中で聞こえる声のすべてが、その一回で出来上がったわけではありません。
背景の歌は、約二週間後に加えられています。マーヴィンは短い部分ごとに歌を入れ、少しずつ完成させていきました。
主役の歌には一曲を通して歌う勢いを残し、周囲の声は後から細かく作る。完成した録音には、この二つの作業が同居しています。
すべてがその場で湧き上がったように聞こえる歌でも、実際の作り方まで一瞬だったとは限りません。
逆に、後から手を入れたからといって、最初の歌唱の勢いがなくなるとも限らない。マーヴィンの録音では、先に歌った自分へ、後から歌う自分が応じることができたのです。
「What’s Going On」では二つの異なる歌い方が共存し、「Let’s Get It On」では一度で歌ったリードに、時間をかけた背景の声が加わる。
どちらも、単に声の数を増やす以上のことをしています。別々に歌った声があるからこそ、一曲の中に呼びかけと応答を作れるのです。
声を重ねる歌手が、舞台では何をするのか
録音なら、昨日の自分と今日の自分を同時に歌わせることができます。舞台で、その場のマーヴィンが歌えるのは一つの声です。
だからこそ、ライブでは歌い方を切り替える瞬間や、予定どおりに進めない自由が、別の見どころになります。

1983年の公演を取材したネルソン・ジョージは、マーヴィンが急にメドレーへ入り、伴奏者たちが譜面を探していた場面を伝えています。本人も、即興で歌うのが好きだと認めていました。
録音で声を緻密に重ねることと、舞台で歌を変えること。その両方に、自分の歌を一通りの形で固定しない姿勢が表れています。
こうした自由な表現へ至るまでには、本人が憧れたバラード歌手像と、モータウンで求められたヒット曲の歌唱との間に、長い試行錯誤がありました。その歩みは、マーヴィン・ゲイの歌声の変遷でたどっています。
柔らかな声の周りに、もう一人の自分がいる
マーヴィンの魅力を「柔らかな声」と呼ぶのは、間違いではありません。ただ、その柔らかさの周りには、荒い声も、裏声も、別のタイミングで歌うもう一人のマーヴィンもいます。
声の質を変え、マイクとの距離を調整し、ときには異なる歌唱を重ねる。彼は、その違いを消さずに一曲へまとめていました。
「What’s Going On」を聴くときには、中心の旋律だけでなく、その周りから加わる声にも耳を向けてみてください。
一人の歌手が一曲を上手に歌うだけなら、二つのテイクから一つを選べばよかった。それでも両方を残したところに、マーヴィンの歌の豊かさがあります。
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