北原ミレイの歌唱変遷|「石狩挽歌」で見つけた、歌う視点

2021年6月の「徹子の部屋」出演を紹介する、北原ミレイの写真 シンガー
2021年6月の「徹子の部屋」出演を紹介する、北原ミレイの写真

北原ミレイは、「石狩挽歌」の録音で何度も歌い方を変えながら、自分でもしっくりこない状態に陥りました。
そこを抜け出すきっかけは、なかにし礼が口にした「雲の上に昇ってこい」という一言でした。

ただ、この曲に向き合う苦労は、録音室に入る前から始まっていました。
明るい恋の歌を望んでいた北原に、なぜまた重い人生を背負う曲が届いたのか。
1970年のデビューから1975年の転機、その後の歩みをたどると、与えられた歌手像と、自分で選び取る表現との間で揺れてきた姿が見えてきます。

「石狩挽歌」―1975年の録音(2006年リマスター・権利者提供音源)

1970年、歌だけでなく素顔まで変えるよう求められた

「ざんげの値打ちもない」でデビューした1970年、北原が望んでいたのは、アイドルのような可愛らしい歌でした。
ところが、実際に与えられたのは、重い人生を振り返る歌です。
作品に合わせ、歌手本人にも暗いイメージを保つことが求められました。

2022年のラジオ出演で北原は、笑ったり話したりせず、取材でも短い受け答えしかできなかったと振り返っています。
歌っている間だけ役に入ればよいのではなく、人前に出るときの振る舞いまで制限されていたのです。
明るい性格の本人にとって、その負担は小さくありませんでした。

続いて届いた「棄てるものがあるうちはいい」や「何も死ぬことはないだろうに」も、希望していた明るい恋の歌とは異なる作品でした。
BSテレ東の番組でも、北原は当時の思いとの隔たりを語っています。
デビュー曲が当たれば、その路線を期待される。
けれど、評価される歌と本人が歌いたい歌とは、重なっていなかったのです。

後年の回想によれば、暗いイメージに耐えられず、一時は歌うのをやめていました。
そこへ、事務所もレコード会社も変えて再出発しようという誘いが届きます。
好きな作詞家だったなかにし礼の作品なら、今度こそ望んでいたロマンチックな歌になるはずだと期待していました。

1975年、断った曲を歌いたくなった瞬間

その再出発で渡されたのが、「石狩挽歌」でした。
浜圭介がギターで歌うデモを聴いた北原は、ニシン漁をめぐる言葉に戸惑います。
海猫を「ごめ」と呼ぶことも、漁師の着る筒袖も、自分の身近な世界ではありません。
思い描いていた恋の歌から遠く、曲を返してほしいと申し出ました。

スタッフは、編曲と演奏が整うまで待ってほしいと説得します。
それでも、北原は歌う気になれずにいました。
ところが、完成したイントロのトランペットを聴いた瞬間、体に電気が走るような感覚を覚え、自分から歌わせてほしいと頼んだといいます。

詞も曲も同じなのに、ギターによるデモと、音が重なった演奏とでは受け取り方が変わった。
この回想からは、歌う気持ちを動かしたのが、説得の言葉だけでなく、編曲によって現れた曲の姿だったことが分かります。
ただ、歌いたいと思えたことで、録音の難しさまで解決したわけではありませんでした。

2016年掲載の取材記事に添えられた北原ミレイ(撮影時期不明・©日刊ゲンダイ)
2016年掲載の取材記事に添えられた北原ミレイ(撮影時期不明・©日刊ゲンダイ)。
画像出典:写真掲載元

歌い方を変えても決まらなかった、録音の壁

録音では、なかにし礼、浜圭介、ディレクター、音楽出版の担当者が、それぞれ異なる意見を持っていました。
北原自身もいろいろな歌い方を試しますが、納得のいくところへたどり着けません。

そこで出たのが、冒頭の「雲の上に昇ってこい」という言葉でした。
北原は、考えを巡らせるのをやめ、空から下を眺めるつもりで腹をくくれ、という意味に受け取りました。
そのつもりで歌うと、一度でOKが出たといいます。
細かな歌い回しを増やすより先に、どこから歌の世界を見るかが定まったのでしょう。

なかにしの指導には、別の回想も残っています。
2020年、訃報に接した北原は、録音でハイヒールを脱いで歌うよう言われたことや、うまく歌えず悩んだとき、歌の舞台を見に北海道へ連れていってもらったことを明かしました。

知らない土地の言葉を歌う北原にとって、曲に描かれた場所を知る機会でもありました。
この訪問と録音中の助言の細かな前後関係は明らかではありませんが、声の出し方を指示するだけではない関わりが続いていたことが分かります。
「石狩挽歌」を自分の歌にするまでには、演奏に心を動かされた瞬間も、歌の世界へ近づく時間もあったのです。

2001年、自分の望むテーマで制作に加わる

代表曲を得た後も、北原の表現が一つの型に固定されたわけではありません。
1988年の「天国のかけら」は、公式プロフィールで、従来の「ミレイ節」とひと味違う歌唱を見せた作品として紹介されています。
そして2001年には、本人が以前から望んでいたテーマを、制作の段階から打ち出すようになりました。

そのテーマは、お洒落であることと、様々な愛の形を歌うこと。
最初の作品が、テレサ・テンのために書かれていた「忘れないで」でした。
デビュー当時は、自分の希望と違う曲を、決められた人物像で歌うことに悩んでいた北原が、今度はどんな世界を歌いたいかを示して制作に参加しています。

「石狩挽歌」で与えられた曲への視点をつかんだ歩みの先に、自分から歌の方向を選ぶ時期が続いています。

「忘れないで」―『ベストセレクション~ショパンの雨音』(2010年発売)収録音源

2021年、同じ歌に込められた人生を知る

長く歌い続けた「石狩挽歌」にも、後から分かることがありました。
2021年の『徹子の部屋』で北原は、なかにしが自分の壮絶な人生からこの曲を生んだ経緯を語る映像に触れています。
そこで、あの歌唱指導に熱がこもっていた理由を改めて理解しました。

北原には初め、遠い土地を歌う暗い曲に思えた作品が、作詞家には自身の人生を託した歌だった。
その背景を知ったうえで、番組では亡き恩人を偲んで「石狩挽歌」を歌いました。
録音を終えて代表曲になった後にも、曲との関係は深まっていたのです。

黒柳徹子と向き合い、笑顔で話す北原ミレイ(左)
2021年6月放送『徹子の部屋』の北原ミレイ(左)。
画像出典:テレ朝POST

現在の公式サイトで北原は、二つの代表曲に生み育てられ、ようやく自分に似合う道を歩いていると振り返っています。
望んだ歌と違うことに悩んだ時期も、なかにしの言葉を自分なりに受け取った録音も、その歩みに含まれています。

「石狩挽歌」の転機は、歌い方を次々と試すことから、歌の中に自分の立つ場所を見つけることへの移行でした。
その後、自分の望むテーマも選びながら、北原は歌える物語を広げてきました。
力強い歌の印象と、静かな低音で人物を描く表現の関係は、北原ミレイの歌い方で扱っています。

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