スティーヴン・タイラーの歌声の変遷|隠したかった「甘い声」が、バラードと共演に届くまで

2025年、若い歌手YUNGBLUDがスタジオで作りかけの歌を聴かせると、スティーヴン・タイラーはすぐに声を重ねました。
やがて二人は、エアロスミスの新曲を一緒に作ります。
その前年、バンドはタイラーの声の負傷を理由に、ツアーから退くと発表していました。

共演が実現したからといって、長いツアーに戻れると決まったわけではありません。
それでも、誰かの歌に声を重ね、新しい曲へ進んだことには意味があります。
タイラーはデビュー当時、むしろ自分の声をそのまま聴かせたくないと思っていたからです。

「甘すぎる」と感じていた声は、どうしてロックの中に居場所を見つけ、バラードやカントリー、そして新しい共演にまで使われるようになったのでしょうか。
出発点には、1973年の「Dream On」があります。

1973年|「Dream On」でも、声を作っていた

エアロスミスのデビュー作を録音したころ、タイラーは自分の声をロック向きだと思っていませんでした。
後年の本人の説明では、録音して聴き返すと声が甘く、天使のように聞こえたといいます。
大きな音のバンドを率いる歌手には、もっと荒々しい声が必要だと考え、意識して声を変えていたのです。

タイラーは1997年のインタビューで、デビュー作の「Dream On」もその作った声で歌ったと話しました。
有名な高音の部分も、本人にとっては最初から自信を持って披露できるものではありませんでした。
録音を聴き返した当初は気恥ずかしかったものの、周囲の反応がよく、受け止め方が変わったと振り返っています。

「Dream On」には、静かに旋律を進める部分と、大きく高い声へ向かう部分が同居しています。
本人が気恥ずかしく思った高い声は、録音室にいた人には魅力として届いていました。
若いタイラーには、どこまでを自分の声として前に出してよいか、まだ決まっていませんでした。

1974年|プロデューサーが求めた「本人の声」

次のアルバム『Get Your Wings』で、制作に加わったのがジャック・ダグラスです。
ダグラスは、最初のアルバムでタイラーが別人のような声を作っていたと考え、今度は本人の声で歌うよう促したと振り返っています。
本人が選んだ荒い声に対して、制作側から別の選択肢が示されました。

ここで「本来の声」に変わったといっても、声のざらつきが消えたという話ではありません。
ロック歌手らしく見せるために作った声から、タイラー自身の持つ声を曲に使う方向へ進んだということです。
1974年の「Same Old Song and Dance」は、その時期のアルバムに収められています。

翌年には「Walk This Way」が生まれます。
その曲で言葉を細かく刻み、ギターやドラムと一緒にリズムを作る仕組みは、スティーヴン・タイラーの歌い方で詳しく扱いました。
ここで大切なのは、初期に自分をロック歌手らしく見せようとした彼が、次第に自分の声や口の動きを曲の特徴にしていったことです。

1987~93年|好みが揺れるなか、バラードを歌う

1987年、エアロスミスは『Permanent Vacation』に「Angel」を収めました。
共作者のデズモンド・チャイルドは、タイラーから大切な女性について聞き、二人でこの曲を作った経緯を話しています。
エアロスミスのアルバムに、相手への思いを歌うバラードが加わりました。

ただし、この曲を歌えたからといって、タイラーがすぐにバラードを好きになったわけではありません。
1989年の取材では、「Angel」をライブで歌うことは好まなかったと本人が明かしています。
その一方で、聴衆には強く届いていることも認めていました。
本人の好みと、客席から返ってくる反応は、同じではなかったのです。

1993年の「Cryin’」では、タイラー自身もジョー・ペリー、テイラー・ローズと旋律や歌詞を作りました。
共作者とともに、自分で旋律や言葉を作るバラードにも進みました。
初期の「ロックには甘すぎる」という不安だけでは、もう彼の歌を説明できません。

1996年のスティーヴン・タイラー
1996年のスティーヴン・タイラー。写真:John Mathew Smith & www.celebrity-photos.com / CC BY-SA 2.0

1998年|荒々しいロックスターが、優しい言葉を歌う

映画『アルマゲドン』のために、ダイアン・ウォーレンは「I Don’t Want to Miss a Thing」を書きました。
彼女は当初、セリーヌ・ディオンのような女性歌手が歌う姿を思い浮かべていたと話しています。
大切な人と過ごす時間を逃したくないという、親密な内容の曲です。

エアロスミスのタイラーが歌ったとき、ウォーレンは曲の意味合いが変わったと感じました。
荒々しいロックスターとして知られる人が、大切な相手と過ごす時間を一瞬も逃したくないと歌う。
その組み合わせが、彼女の想像とは違う強さを曲に与えたというのです。

ウォーレンの受け止めでは、タイラーが荒々しいロックスターとして知られていたからこそ、親密な詞に意外な切実さが生まれました。
1973年に声をロック向きに変えようとした歌手が、1998年には、ロックスターとして築いた印象を親密な歌にも持ち込んだのです。

2015~16年|幼い頃の音楽のルーツを、バンドの外で歌う

2015年、タイラーはソロ曲「Love Is Your Name」を発表しました。
翌年には、ナッシュビルの音楽家たちと作ったアルバム『We’re All Somebody From Somewhere』を出します。
エアロスミスを辞めたわけではなく、バンドとは別の場所で、自分の歌を試す企画でした。

本人によれば、カントリー音楽は突然選んだ未知の世界ではありません。
幼いころから親しんだ歌の中にはエヴァリー・ブラザーズがあり、そのハーモニーも自分のルーツだと話しています。
一方、1997年には、デビュー時にそうした柔らかなハーモニーから距離を置こうとしていたとも振り返っていました。

「Love Is Your Name」は、タイラー自身が書いた曲ではありません。
ナッシュビルの小さな店でリンジー・リーが歌うのを聴き、後日その曲の音源に出会うと、自分で歌いたいと申し出たそうです。
新しい共作者だけでなく、自分の声で届けたいと思える歌も探していました。

若い日に遠ざけた柔らかなハーモニーを、後年のタイラーは自分のルーツとして語りました。
ソロ作品では、バンドの外で自分が歌いたい曲を選んでいます。
これはロックから別のジャンルへ「転向」したというより、自分の中にあった音楽を、バンドの外でも歌えるようになった変化です。
ナッシュビルの共作者や新しいバンドと作る歌では、声の周りにある演奏も、エアロスミスの曲とは違います。

2018年8月、ロンドンのソロ公演で歌うスティーヴン・タイラー
2018年8月、ロンドンのソロ公演で歌うスティーヴン・タイラー。写真:Raph_PH / CC BY 2.0

2024~25年|ツアーを退いたあと、もう一度声を重ねる

2024年、エアロスミスはツアーからの引退を発表しました。
タイラーの声の負傷について、完全な回復は見込めないというのがバンドの説明です。
長い公演を続けることを断念した事実は、彼の近年の歌を語るときに外せません。

翌年、YUNGBLUDとの出会いから録音が始まります。
彼が持ち込んだ曲の断片にタイラーが声を重ね、次の日には別の曲「My Only Angel」の制作にも進みました。
同席したペリーは、もう聴けないと思っていたようなタイラーの歌が出てきたと振り返っています。
ただし、それはペリーがスタジオで受けた驚きであり、ツアーを再開できるという医学的な判断ではありません。

完成した「My Only Angel」は、タイラーとYUNGBLUDの声を重ねた歌から始まります。
エアロスミスの公式説明によると、二人はこの曲だけでなく、EP『One More Time』の新曲でも共に歌いました。
かつては自分の甘い声を隠そうとしたタイラーが、今度は若い歌手と声を並べ、互いの違いも似たところも曲に使っています。

一つの声を、いくつもの歌に使ってきた

タイラーは1973年に、自分の声をロックに合うよう作ろうとしていました。
次のアルバムではプロデューサーに本人の声で歌うよう促され、1987年には好みが複雑なままバラードも歌いました。
1998年の映画主題歌では、荒々しい歌手が親密な言葉を歌うことに、作者が新しい魅力を見いだしています。

ソロではバンドの外の歌も選び、2025年には若い歌手と声を重ねました。
ツアーを退いた後も、スタジオで誰かと歌い、新しい曲を残しました。
タイラーの変遷は、声の粗さをなくす話でも、若いころの高音へ戻る話でもありません。
ロックに合わないと考えた声の使い道を、曲と仲間の変化の中で増やしてきた歩みです。

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