中田裕二の歌唱変遷|椿屋四重奏の「紫陽花」からソロ、そして二十周年で歌い直すまで

中田裕二 シンガー

2023年、椿屋四重奏のデビュー20周年に合わせて昔の曲を歌うことになった中田裕二には、不安がありました。
ソロで進んでいる道がまだ途中だったうえ、二十代に作った力の要る歌を、今の自分が歌えるのか心配だったといいます。
しかし実際に取り組むと、ソロで積み重ねた経験が過去の曲にも生き、今の曲より歌いやすいと感じる場面さえありました。
歌謡曲を好んだ青年が、バンドを経て、弾き語りやカバー、語るような歌を試した時間は、古いレパートリーとの再会をどう変えたのでしょうか。

「紫陽花」椿屋四重奏の公式PV(2005年発表曲)

歌謡曲の声を、ロックバンドの中で響かせる

中田の家では、幼い頃から安全地帯の音楽が流れていました。
親に連れられて行くカラオケスナックでは大人の歌を歌い、CHAGE and ASKAの音楽にも親しんでいます。
椿屋四重奏を結成した時、歌謡曲やニューミュージックの感覚は、すでに自分の中にあるものでした。
2005年の「紫陽花」を含む『薔薇とダイヤモンド』は、そうした歌への志向をロックバンドの形で届けた作品です。

中田は後に、バンド時代には、自分の頭の中で鳴っている音をきっちり再現しなければ気が済まなかったと話しています。
ところが後期になると、表現したい音楽が、その編成からはみ出し始めました。
2009年の『CARNIVAL』に入った「シンデレラ」の頃には、ポップスやブラックミュージックの要素を取り入れ、コーラスももっと厚くしたいと考えていたそうです。
ギターを中心に曲を組み立てるだけでは、欲しい歌の形を十分に作れなくなっていました。

2008年に歌う中田裕二と椿屋四重奏
2008年、椿屋四重奏のライブで歌う中田裕二。
写真出典:音楽ナタリーの中田裕二取材

同じ2009年には、バンドと並行して「SONG COMPOSITE」も始めています。
中田の歌とアコースティックギターに、YANCYのピアノを加え、歌謡曲のカバーも披露する公演でした。
本人は、歌い手としてどうありたいか、自分にとって歌うことは何かに向き合いたいと説明しています。
ソロへ移る前から、伴奏を絞った場で歌を聴かせる試みは始まっていたのです。

2011年、未完成の「ひかりのまち」を先に届ける

椿屋四重奏は2010年末の公演を最後に活動を終え、2011年に解散を発表しました。
同年3月、東日本大震災の後に中田が急いで録音したのが「ひかりのまち」です。
公式公開時の本人の説明には、まだ未完成で、声が枯れたり裏返ったりする部分もあると記されています。
それでも、故郷を思い、一発で録った歌に気持ちを込めたと伝えました。

「ひかりのまち」公式公開音源(2011年3月)

この時は、録音を十分に整えるより、今できることを早く届ける必要がありました。
2016年の取材で中田は、震災後に電気を使えなくなる状況を見て、生楽器と歌だけでも成り立つ歌い手でなければならないと考えたと話しています。
何を失っても自分に残るものは何か。
伴奏の規模や音作り以前に、歌い手として存在する意味を問い直した出来事でした。

中田裕二
2011年、ソロ活動を始めた中田裕二。
写真出典:音楽ナタリーの中田裕二取材

ソロ活動を始めてからは、伴奏する人との関係も変わりました。
初作では、どんな方法で中田裕二として進むかを探り、身構えていたといいます。
その後のツアーを支えたのは、必ずしも原曲どおりには演奏しない奏者たちでした。
初めは抵抗があったものの、予定になかった音が生まれる瞬間を体験し、そのよさが分かってきたそうです。

2012年の『MY LITTLE IMPERIAL』では、ホーンを入れることや、録音中にフレーズを変えることにも前向きになりました。
頭の中の完成形を再現する以外に、周囲の演奏から刺激を受けながら曲を動かす余地が生まれています。
歌い手としての立ち位置を探していた時期を経て、誰と、どんな音の中で歌うかも選べるようになっていきました。

2016年、他人の人生が重なる歌と、生身の録音を選ぶ

「ただひとつの太陽」で中田が目指したのは、シンプルな歌でした。
酒場で歌う人は、うまく歌いたいだけでなく、自分の人生を誰かに受け止めてほしい気持ちも歌へ託している。
本人はそう考え、そのような曲を作ろうとしたと話しています。
自分の物語を歌い切ることに加え、別の人が自分の人生を置ける歌を求めたのです。

同じ頃の録音方法にも、歌をどう残したいかという考えが表れています。
中田は2016年の対談で、バンド時代には音を圧縮し、音圧を上げる制作をしていたが、自分のルーツはアナログ時代の音楽だと語りました。
そしてORIGINAL LOVEの「接吻」のカバーを、一発録りで収録したと説明しています。
歌手である自分を通して名曲を届けることと、演奏する人の揺れを残すことが、同じ制作の中にありました。

「接吻」中田裕二によるカバーの公式音源(2016年)

「ひかりのまち」では、急を要する状況から、その時の歌を録って届けました。
「接吻」では、生身の音楽を残したいという選択として一発録りを採っています。
2016年には、作り込んだデモも使う一方、空気感を大事にしたい曲では奏者に自由に弾いてもらうとも話していました。
一つの方法に固定せず、その歌に必要な完成のさせ方を選ぶようになっていたのです。

2019年「ランナー」――歌い上げるだけでなく、言葉を語る

『Sanctuary』に入った「ランナー」では、ラップ調の歌にも取り組んでいます。
きっかけは、友人の参加した東京マラソンを見に行ったことでした。
それぞれの事情を抱えて走る市民ランナーに人生を重ね、言葉が浮かんできたと中田は説明しています。

この歌い方は、弾き語りを続ける中から自然に出てきたものだそうです。
通常の旋律へ乗せると収まりにくい言葉でも、ビートに合わせて語るように刻めば成立する。
中田は、そこに普段とは違う言葉を使える自由を感じていました。
伴奏には生楽器によるファンクを選び、言葉の運びをその演奏に合わせています。

別の取材では、本人はこの試みを、歌のリズムで遊ぶ感覚として説明しました。
昔の歌謡曲の歌手にも、拍へきっちり合わせるだけでなく、歌うたびに雰囲気を変える面白さがあったと捉えています。
若い頃から好きだった歌謡曲は、決まった節回しを守るためだけのものではありませんでした。
言葉を自由に置く新しい歌を作る時にも、その経験が手がかりになっていたのです。

『MOONAGE』で固めた表現を、二十代の曲へ持ち込む

2023年の『MOONAGE』とそのツアーでは、勢い以外の表現をどうライブで形にするかが、よりはっきりした課題になりました。
ソロになってからは、普段悩みや苦しみを抱えている大人へ向けて歌う面があり、自分も年齢を重ねて、その表現がしっくりくるようになったと中田は話しています。
「ハグレモノ」を含むこの作品の頃まで、自分の歌い方を研究し、少しずつ固まってきた感覚があったそうです。

そのツアーの最終公演で発表されたのが、夏限定の「椿屋四重奏二十周年」の活動でした。
中田は当初、ソロの道がまだ途中だと考え、過去へ戻ることに気持ちが向かなかったといいます。
二十代の曲を歌うには力が要るため、本当に歌えるのかという不安もありました。
『MOONAGE』までに歌い方を研究してきたことが、挑戦できるかもしれないと思う支えになりました。

公演には中田と小寺良太に加え、ソロでも共演してきた奥野真哉、隅倉弘至、カトウタロウが参加しています。
中田はその演奏にしなやかさを感じ、昔の曲の武器や個性を捉え直し、今の自分たちが何を加えられるかを考えたそうです。
かつて難しい曲を作ることにひかれていた自分を振り返ると、技術だけが前へ出て、聴き手の入る余地がなくならないようにもしていたと気づきました。
曲を解きほぐす作業は、当時の自分の歌や音楽を、外側から見直す機会になっています。

「幻惑」公式ライブ映像(2023年8月27日・昭和女子大学人見記念講堂)

2023年8月27日の公演には「紫陽花」も入り、同日の「幻惑」は公式ライブ映像で公開されています。
「紫陽花」を含む公演全体は、2024年発売の映像作品『花舞う宵に月仰ぎ見て』にも収められました。
昔のレパートリーを、現在の奏者と現在の声で引き受けた記録です。

中田は、始める前は不安だったものの、実際に演奏を重ねると身体が応じ、今の曲のほうが歌いづらいと感じることもあったと話しています。
さらに2024年の取材では、椿屋四重奏の曲に取り組んだことで、歌への向き合い方や歌唱法をソロへ還元できそうだとも語りました。
ソロの経験が古い歌を支え、その古い歌が次のソロの表現を刺激したのです。

中田裕二
2024年の取材に応じる中田裕二。
写真出典:ぴあ音楽の2024年取材

こうした経験は、昔の曲を歌う時の判断にもつながっています。
歌だけでも届けようとした経験、奏者の予想外の音を受け入れる余地、言葉を語るように運ぶ方法が、曲への向き合い方を広げました。
ソロの時間を重ねた今の声で、昔の歌を歌う。
椿屋四重奏とソロが再びつながった時、長く歌ってきたことの意味も見えてきました。

こぶしやフェイク、曲ごとの言葉の運びについては、中田裕二の歌い方で掘り下げています。

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