二葉百合子の歌唱変遷|「岸壁の母」に添えた台詞と、次の世代へ届ける思い

引退表明の記者会見で挨拶する二葉百合子(2010年・©共同通信社) シンガー
引退表明の記者会見で挨拶する二葉百合子(2010年・©共同通信社)

二葉百合子の「岸壁の母」は、母の言葉を台詞で添える形で広まりました。
けれど、同じ曲を長く歌う間には、舞台で歌うことがつらくなった時期もあります。
歌のモデルとなった母親との別れが、その曲との向き合い方を変えたのです。

母の言葉を自分の声で届けることから、長い物語を若い人にも伝える工夫、次の歌い手へ託す決断まで。
「岸壁の母」を軸に、二葉が歌う役割をどう広げてきたのかをたどります。

「岸壁の母~歌謡節『母の叫び』入り~メドレー」―『二葉百合子全曲集~岸壁の母~』(2022年発売)収録音源

浪曲師の歌に、母の台詞を加える

二葉の歌と語りが結びついた背景には、浪曲師だった父の発想があります。
2014年の回想によると、1945年の疎開中、父は若い娘の浪曲に洋楽を取り入れれば、若い聴き手にも興味を持ってもらえるのではないかと考えました。
二葉が後に取り組む歌謡浪曲は、古くからの芸を、その時代の人へどう届けるかという工夫から育っています。

「岸壁の母」は、1954年に菊池章子が歌った曲でした。
二葉が録音したのは1971年です。
本人への取材冊子『苑』によれば、懐メロのLPを作る中にこの曲が入り、浪曲師の二葉が歌うなら台詞も加えようという話になりました。
作詞家の藤田まさとから浪曲作家の室町京之介へ依頼があり、母の言葉が加わったのです。

この形では、母親の姿を歌う声から、息子を待つ母自身の声へと移ります。
旋律を歌う力に、人物として語る浪曲の持ち味が重なりました。
二葉がNHKの歌番組で披露すると、どこで買えるのかという問い合わせが相次いだと伝えられています。

人気は一度の放送だけで完成したわけではありません。
二葉は各地で歌い続け、翌年もまた「岸壁の母」を聴きたいという声を受け取っていました。
本人は、全国的なヒットになるまで四年ほどかかったと振り返っています。
同じ歌を繰り返すことが、土地ごとの聴き手との約束にもなっていたのです。

1981年の別れで、歌うことがつらくなった

歌のモデルである端野いせは、二葉にとって親しく付き合う人でもありました。
自宅を訪ね、息子の帰りを待つ暮らしに触れています。
1997年の取材で二葉が語ったのは、いせが息子の好物を用意し、似合いそうなネクタイを買い置きしていたことでした。
二葉にも息子が一人いて、その話を振り返る言葉は涙で詰まったといいます。

歌への反響には、夫を戦争で失い、子を育ててきた女性たちからの手紙もありました。
一人の母を描く歌が、別の人の経験にも重なっていたのです。
二葉が歌うときには、歌詞の物語に加え、実際に会った母親や、歌を聴いた人の姿がありました。

いせは1981年に亡くなります。
二葉は、その後に「岸壁の母」を舞台で歌うのがつらくなったと語っています。
親しい人を思って歌うことが、その人を失った悲しみを呼び起こすことにもなったのでしょう。

やがて、歌うときの思いは変わっていきました。
74歳のときの取材では、平和な時代にこの歌を歌えることに感謝し、いせにも聴いてほしいという気持ちで歌っていると話しています。
悲しみとともに、その人へ歌を届けたいという思いが育っていたのです。

2025年にも、歌う間はいせがそばで聴いているように感じていた、と本人は振り返りました。
それを初めて感じなかったのが、2011年の引退公演だったそうです。
二葉は、もう安心して旅立てるということだったのではないか、と受け止めています。
母を思い出すことは、歌うつらさを呼ぶ記憶から、舞台に立つ自分を支える感覚にもなっていました。

長い物語を、初めて聴く人にも届ける

「岸壁の母」には、台詞を挟む歌謡曲版に加え、母の思いを長くたどる版があります。
二葉は、約三十分の浪曲を、内容を知らない若い人にも聴きやすいよう、約十二分にまとめた作品を紹介していました。
2006年のミニアルバム『母・情を唄う』には、歌謡節「母の叫び」を含むメドレーが収められています。

2022年の全曲集でも、通常の「岸壁の母」と、「母の叫び」入りのメドレーは別の曲として並んでいます。
冒頭の配信音源は、後者の約十一分の版です。
歌と語りを行き来しながら母の思いをたどる時間が、通常版より長く取られています。

作品を短くまとめる判断にも、二葉が聴き手を思う姿勢が表れています。
二葉は、物語に初めて出会う人が入ってこられる形も考えていました。
引退会見でも、若い人の一部にでも戦争の恐ろしさや悲しさが伝わってほしいと訴えています。
父が若い聴き手に向けて考えた歌謡浪曲を、二葉もまた、次の世代へ届く形に整えていたのです。

「岸壁の母」―『二葉百合子全曲集~岸壁の母~』(2022年発売)収録音源

2011年、声が出るうちに舞台を降りる

二葉は2010年に引退を表明し、2011年3月6日、NHKホールで「さよなら公演」の最終公演を行いました。
会見で話していたのは、元気で声が出るうちに辞めようと決めていた、という考えです。
同時に、後輩の指導が生きがいだから、声は出し続けるとも語っていました。

当日の報道では、「雪月花」から最後の「岸壁の母」まで歌い、弟子たちもゲストとして集まっています。
舞台に上がった泉ピン子からは、辞めずに再出発の日にしてほしいと惜しむ言葉が出ました。
周囲がまだ聴きたいと思う時点で、自分の区切りをつけた公演だったのです。

2010年の引退会見で、夫の大村忠(右)と握手する二葉百合子(左)
2010年の引退会見で、夫の大村忠(右)と握手する二葉百合子(左)。
画像出典:写真掲載元

その引退の頃、二葉は坂本冬美に、長篇の「岸壁の母」を歌い継いでほしいと頼みました。
坂本は、戦争も出産も経験していない自分には、いせの気持ちを表せないとためらいます。
二葉が求めたのは、上手さを見せることより、心で歌うことでした。
同じ人生を生きていない次の歌い手にも、歌を託そうとしていたのです。

引退後も、自分で歌い、次の歌い手を支える

引退は、二度と人前で歌わないという意味ではありませんでした。
2022年11月、日本歌手協会の「第49回歌謡祭」で特別功労賞を受けた二葉は、「岸壁の母」を披露しています。
石原詢子らが見守る舞台で、歌い終わっても拍手が続いたと報じられました。
後輩へ教える存在であるとともに、自らの歌を届ける機会も持ち続けていたのです。

第49回歌謡祭で岸壁の母を歌う二葉百合子(右)。奥に石原詢子と研ナオコ
2022年11月、第49回歌謡祭で歌う二葉百合子(右)。
撮影:浅見桂子/画像出典:日刊スポーツ

一方、歌を受け継いだ坂本は、2026年6月、曲の舞台である舞鶴市での番組収録で長篇版を歌いました。
本人の公式日記には、出演が決まってから二葉が毎朝励ましてくれたことが記されています。
引退時に曲を渡して終わるのではなく、次の歌い手が舞台へ向かう時間にも寄り添っていました。

台詞を加えて母の声を届け、長い物語を聴きやすい形にし、後輩の声でも残していく。
二葉の「岸壁の母」は、歌う人と聴く人との関係を変えながら続いています。
その歩みを支える発声と、その日の調子を生かすこぶしの扱いは、二葉百合子の歌い方で掘り下げています。

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