曽我部恵一の歌声の変遷|弾き語りで育った強さと、つぶやく声の発見

2025年3月のグレッチ取材に掲載された曽我部恵一 シンガー
2025年3月のグレッチ取材に掲載された曽我部恵一

サニーデイ・サービスの曽我部恵一は、バンドの歌手だった時期と、自分自身が歌うことを好きになった時期を分けて振り返っています。
一人で歌う現場を重ねて声を鍛え、その後には、強く歌える声をあえて抑えるラップにも進みました。
歌い手としての自信がどう育ち、それがどんな声の選択へつながったのかをたどります。

ギタリストが歌うことになり、自分の景色を曲にする

曽我部は、もともとバンドでギターを担当していました。
最初のボーカルが辞めたため、自分が歌うことになったのが出発点です。
初期には大瀧詠一をまねて歌っていたとも話しており、好きな音楽の声を手がかりに、自分の歌を探していた時期がありました。

サニーデイ・サービスは1995年に最初のアルバム『若者たち』、翌年に『東京』を発表します。
街や恋愛、若い日の気分を描く歌のなかで、曽我部の名前と声が知られていきました。
2000年のバンド解散を経て、2001年には弾き語り作品『ギター』を発表。
バンドの中心で歌ってきた人が、自分の声と一本のギターで曲を差し出す段階へ進みます。

1995年に書いた「青春狂走曲」の出発点は、仕事が思うように進まなかった頃の、夜明けの散歩でした。
曽我部は2023年にも、この歌を歌う気分は年齢や時代を越えて続いていると振り返っています。
後年まで残ったのは、若い声そのものだけではありません。
暮らしの行き詰まりと、朝の気持ちよさが同時にある感覚も、歌い続ける理由になっていました。

ソロの録音と、小さな会場で鍛え直した歌

2002年のソロアルバム『曽我部恵一』では、家で録った11曲が作品になりました。
いったんスタジオで作り直すことも試しましたが、最終的には自宅で録ったものを選んでいます。
声、旋律、ギターという身近な形に戻すことが、この時期には必要だったのでしょう。
本人は、強い気持ちを書いたとしても、それをそのまま荒々しい音にするとは限らないと説明しています。
感情の強さと歌の激しさを一致させない考え方は、早い段階からあったのです。

ただ、一人になれば自然に歌が届いたわけではありません。
曽我部は、ソロで歌い始めた頃、自分の声の弱さを感じたといいます。
各地の喫茶店や飲み屋などにも出向き、歌う経験を積みました。
2021年には、歌うこと自体を好きになったのは、20代の頃より後だったと振り返っています。

この現場への向かい方は、2004年に自主レーベルを始めた後、さらに徹底されました。
拡声設備のあるなしや会場の大小にかかわらず、できるだけ多く歌う。
そうして経験を積まなければ、作品の質を語る足場もできないという考えでした。
一方で、経験が増えると、慣れた方法でうまく歌えてしまう問題も出てきます。
2013年には、身についたやり方に頼る感覚から離れ、改めて難しいことに向かおうとしていました。

整った歌を手放す『超越的漫画』と、景色へ開く『DANCE TO YOU』

『超越的漫画』発表時、2013年の取材で語る曽我部恵一
『超越的漫画』発表時、2013年の取材で語る曽我部恵一。
画像出典:画像掲載元

2013年の『超越的漫画』では、言葉をきれいに整えてから歌う手順も揺さぶっています。
録音のたびに言葉が変わり、最終的な歌詞を書き固めないまま進む曲もありました。
「バカばっかり」の荒々しさや、「ひとり」の語りに近い表現は、その作品の振れ幅を示しています。
練習して得た安定感を保つだけでなく、その場で言葉が出てくる勢いまで録音に残そうとする時期でした。

ここでいう変化は、以前より乱暴に歌うようになった、という一方向のものではありません。
声がよく出るようになることと、整えすぎた歌から離れることが、並行して起きています。
鍛えた歌を使って何を伝えるか。
曽我部の関心は、声の能力を増やすことから、その能力の使い方へも広がっていったと考えられます。

2016年のサニーデイ・サービス『DANCE TO YOU』では、別の方向が見えてきます。
最初にできた「苺畑でつかまえて」に続き、「桜 super love」が作品の方向を開きました。
曽我部が求めたのは、強い主張で聴き手を動かすことより、景色がそのまま見えるような表現です。
歌い手の思いを前面に押し出すだけでなく、歌を通して聴き手が自分の景色へ向かえるようにする。
感情を込めることの意味を、違う角度から考えた作品でした。

2018年、加工した声と、抑えたラップへ

2018年の『the CITY』では、「ラブソング2」などで声の加工も取り入れます。
曽我部は、オートチューンによる響きに、その時代らしい熱を感じていました。
感情を込めた歌唱にも加工を使いたいという発想です。
生の声だけを残すことが、その人らしさを守る唯一の方法ではなくなっていました。

同年のソロ作品『ヘブン』では、ラップへ本格的に踏み込みます。
それまで自分に引いていた、ラップはしないという線を越える試みでした。
録音では、どの高さの声がビートに合うかも探っています。
ライブで強く歌うときとは違い、つぶやくように抑えた声のほうが自分らしいと感じたことも、大切な発見でした。

小さな会場を回って声を鍛えてきた人が、今度は声を抑える。
この二つは、後戻りとして捉える必要がありません。
人前に歌を届ける力を育てることと、録音でその力を全面に出さないことは、両立する選択です。
強い声を獲得した後にも、曽我部は、自分の声の別の居場所を探し続けていたのです。

2020年のサニーデイ・サービス『いいね!』では、作品の先鋭性を示すことから、歌そのものへと関心が移ります。
前の作品で十分に挑戦した一方、聴き手の心に歌が残ったかという問いもあったといいます。
過去を更新する姿を見せるより、いい曲の入った作品を作る。
実験を重ねた後の簡潔さは、最初から冒険をしなかった人の簡潔さとは違うものでした。

太くなった声と、若作りをしない現在

2021年、曽我部は、20代よりも40代のほうが声が大きく太くなったという実感を語っています。
一方で、歌った後に回復するまでの時間は長くなり、休む必要も感じていました。
声の成長と、身体の回復の変化を、同じ物差しで語っていない点が印象的です。

2021年2月の取材に掲載された曽我部恵一
2021年2月の取材に掲載された曽我部恵一。
画像出典:画像掲載元

50代に入ってからも、若い声を意識して作っているわけではありません。
2022年の『DOKI DOKI』をめぐる対話では、年齢を重ねたざらつきのある声も好きだとしつつ、自分の声が今も若く感じられることを話しています。
若々しく聞こえるからといって、若い頃の再現を目指しているとは限らない。
今の身体で歌った結果を、そのまま引き受ける姿勢が見えてきます。

2025年の『サニービート』では、より整った作品を一度作りながら、そこから離れて録り直しています。
「青空であること」は、青空と自分の存在を、そのまま歌うような曲になりました。
曽我部は、そこへ隠れた意味を読み込むより、言葉どおりの感覚を大切にしています。
長く歌って得たものをすべて詰め込むのではなく、今の自分に必要な簡潔さを選ぶ制作でした。

同じ年、30周年を迎えた『若者たち』を聴き直した曽我部は、若い自分たちが思った以上に丁寧に作っていたことにも気づきました。
今のほうが技術はあっても、当時の情熱や集中力を軽く見ることはできない。
過去を未熟な時代として片づけず、現在の自分が学び直す対象にしているのです。

曽我部恵一の歌声は、弱かった声が強くなった、という説明だけでは収まりません。
歌い続けることで得た強さを、荒々しい言葉にも、透明な景色にも、小さなラップにも使ってきました。
年齢を重ねても、選ぶ声の大きさや形は一つに固定されない。
その選び直しが、昔の歌を歌うときにも、新しい曲を作るときにも、歌を現在のものにしているのでしょう。

曲ごとの強弱や言葉の置き方は、曽我部恵一の歌い方で詳しく扱っています。

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