宮沢和史の歌声の変遷|新しい歌い方を探した旅から、自分の声を取り戻すまで

2015年の取材に応じた宮沢和史 シンガー
2015年の取材に応じた宮沢和史

新しい音楽と出会うたびに、それまでの歌い方をいったん脇に置く。
宮沢和史は、長いあいだそうやって歌の世界を広げてきました。
ところが、音楽から離れた時間を経て、過去に身につけた表現を自由に行き来できるようになったといいます。

「島唄」や「風になりたい」を生んだ歌手が、自分の歌をもう一度見つける。
その変化は、新しいジャンルを増やしてきた経歴だけでは見えてきません。
歌い手として何に迷い、復帰後に何を手放したのかをたどると、長年の代表曲にも違う入口が見つかります。

沖縄との出会いで、内側に向いていた歌が外へ開く

1989年にTHE BOOMでデビューした宮沢が、初めて沖縄を訪れたのは1990年。
きっかけは『JAPANESKA』のジャケット撮影でした。
西洋の音楽家には作れない日本発のロックを考えるなかで、沖縄民謡にも関心を寄せていたのです。
現地を訪れると、東京での忙しい暮らしとはまったく違う時間が流れていました。
音だけで惹かれていた土地へ、今度は何度も足を運ぶようになります。

「ひゃくまんつぶの涙」では、音階やリズムを試しても、最初は歌詞が出てこなかったそうです。
沖縄を訪ねたことで言葉が生まれ、その後の「島唄」へもつながっていく。
宮沢は、内側の世界に共感してくれる人へ歌う感覚から、知らない世界へ自分で入っていく感覚に変わったと振り返っています。
後のブラジルやキューバとの出会いも、この延長にありました。

矢野顕子の勧めもあって、ブラジル音楽にも深く惹かれました。
1994年の現地での体験が『極東サンバ』へ結びつきます。
土地の音楽に人生を懸ける人たちと演奏するほど、自分の拠り所は何かも問われました。

異国のリズムを取り入れて終わる話ではなく、そのなかで自分の声をどこに置くかという問題が残る。
旅先で音楽を学ぶ喜びと、歌い手としての迷いが並んでいたことが、この先の歩みを理解する鍵になります。

THE BOOMでのデビュー当時、1989年の宮沢和史
THE BOOMでのデビュー当時、1989年の宮沢和史。
画像出典:画像掲載元

新しい音楽に挑み、自分の歌い方が分からなくなる

初期に大切にしていたのは、覚えやすく、複雑にしすぎない歌。
ところがブラジル音楽に惹かれると、難しいコードやメロディー、転調にも向かいます。
宮沢は後年、その挑戦のなかで本来の自分の歌い方を見失い、自分の歌を歌えないと悩んだ時期があったと明かしました。
音楽の選択肢が増えることと、歌い手として迷いがなくなることは、別だったのです。

1998年のソロ作『AFROSICK』では、ブラジルの音楽家たちの方法に自分を合わせることを試しました。
一方、2002年のスペイン公演を経た「島唄」への考えは、現地の言葉でも歌ってみたいというもの。
日本語で歌われる海外のカバーに触れたうえで、自分はスペイン語に挑む。
同じ曲を携えていても、どこで誰と歌うかによって、歌手に求める課題を変えていたことが分かります。

2004年『SPIRITEK』で、歌うことだけに向き合う

人に提供した曲を自分で歌った『SPIRITEK』では、編曲や演奏を信頼する音楽家へ任せ、歌手の仕事に集中しました。
歌に使える時間が増え、さまざまな歌い方を試せたといいます。
新しい音を作ることから、目の前の歌をどう届けるかへ、力を注ぐ先を変えたのです。

この制作では、いつもの自分の癖を一度忘れてマイクに向かったとも語っています。
経験を積むほど、自然にできることが増える一方で、慣れた歌い回しにも頼りやすくなる。
新しい音の探求と並んで、自分の歌い方を見直す作業も続いていたのです。

歌を近い距離で届ける試みも、復帰して突然始まったものではありません。
休止前から続けていたソロ公演「寄り道」では、曲のできた経緯を話しながら弾き語る、自宅へ客を招くような時間を目指していました。
2012年には、ひとりの弾き語りを基本にしつつ、ピアノやゲストを迎える形も用意しています。
大きなバンドと小さな編成を行き来する経験は、すでにあった。
復帰後に変わるのは編成人数そのものより、その場で自分が何を届けたいかという優先順位でした。

2016年、歌い慣れた型のままでは続けられなくなる

2014年にTHE BOOMが解散し、宮沢はソロでの活動を続けます。
しかし、長く抱えていた首の不調が悪化し、2016年には歌手活動を休止しました。
本人にとっては、しばらく休んで戻るというより、歌手をやめる決断。
歌も聴かず、ギターも弾かない生活に入ったといいます。

その直前、2016年1月31日のツアー最終公演では、GANGA ZUMBAと23曲、3時間を超えるステージを届けていました。
激しく動いてシャウトする場面がある一方、最後の「遠い町で」では、言葉を一つずつ噛みしめる歌唱。
外から見える熱演と、本人の内側にあった続ける難しさは、同じものではありませんでした。

宮沢が後に振り返ったのは、長年使ってきた自分の型が、体の不調で通用しなくなったときの不安です。
当たり前にできていたことを失うと、精神的にも弱くなる。
歌の仕事をいったん離れたのは、その型ごと仕切り直す意味を持っていました。

2018〜2019年、声を届ける喜びから組み立て直す

再び歌うきっかけは、世話になった人からの誘いでした。
本人が散々な出来だと思った歌にも、客席から拍手が返ってくる。
少しずつ歌う曲数を増やし、1時間の公演をやりきれたことを喜ぶ。
かつての規模へ急いで戻るのではなく、目の前で聴く人の反応から、歌う時間を取り戻していきました。

2018年のツアーでは、ピアノとドラムと自分という少人数の編成を選びます。
以前はサウンドを重視していたけれど、このときは歌そのものを伝えたかった。
宮沢は、編成を絞ったこともよかったと話しています。
声を支える音が少なければ、歌が運ぶ言葉や気持ちは前に出る。
復帰とは、以前と同じ大きさで声を張れるかを確かめるだけの場ではなかったのです。

2019年の『留まらざること 川の如く』に収めた「歌手」は、手のひらからマイクのまめが消えていたことが出発点でした。
もう歌わないつもりなのに、書いた言葉には曲をつけられるリズムがある。
その自分を歌にしたところに、この復帰の面白さがあります。
バンドの顔でも、強いメッセージを背負う役でもない、一人の人間として歌う場所ができていったのです。

「旅立ちの時」の再録で、昔の自分を更新する

2021年の『次世界』では、1998年の長野パラリンピックに向けて歌った「旅立ちの時」を再録しました。
宮沢には、今歌えば励ませる人がいるという思いと、以前よりうまく歌えるかもしれないという感覚がありました。
編曲も、自分に近いロックの力強さを持つものへ。
今の声で歌い直す試みです。

2024年には、一度音楽を離れたことで、それまでの経験を客観的に見渡せたと説明しています。
新しい音楽へ進むたびに以前の歌い方を脇へ置いていた時期から、経験した歌の世界を行き来できる時期へ。
過去の表現が、次へ進むために捨てるものではなく、今の自分が選べるものになった。
そこが、長い旅を経た宮沢の大きな変化でしょう。

2026年の取材に応じた宮沢和史
2026年の取材に応じた宮沢和史。
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自分の歌が見えたから、また違う音楽とも出会える

35周年を前にした宮沢は、声も表現力も今はよい状態だと、自分の歌への満足を話していました。

2026年、塩谷哲やオルケスタ・デ・ラ・ルスとの共演については、曲の芯を保ったまま、まったく違う印象に生まれ変わる楽しさを語っています。
歌い慣れた自作曲にも、自分で驚ける余地がある。
新しい音楽のなかで自分を探し続けた旅は、今では、自分の声で新しい出会いを楽しむ旅へとつながっています。

曲ごとの声と言葉の届け方は、宮沢和史の歌い方の記事で掘り下げています。

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