1988年のアルバム『WINK』を作るとき、松原みきは編曲家の鷺巣詩郎に、固定のメンバーで演奏し、録音前に自分も加わって練習したいと伝えました。スタジオで初めて伴奏に声を乗せるのではなく、録音本番の前から演奏者と曲の形を探したい。その願いは、彼女のデビューを知るといっそう興味深く感じられます。
1979年の「真夜中のドア〜stay with me」は、作曲家が伴奏を仕上げたあと、19歳の新人の歌が入った曲でした。松原はその枠の中で、作り手が予想しなかった大人びた情感を生みます。以後は、歌詞へ焦点を移した作品、自分の録音を聴き直して歌い直す現場、低めのキーで歌うジャズの曲集を経て、アルバム全体を仲間と作る立場へ進みました。
その声を、誰がどんな曲の中に置き、松原自身は何を確かめて歌ったのか。制作に立ち会った人たちの記録から、その選択の変化をたどります。
1979年――洋楽を目指した伴奏に、19歳の歌が入る
「真夜中のドア」は、最初から歌謡曲として書かれたわけではありません。作曲・編曲を担当した林哲司がレコード会社から受けた注文は、歌謡曲らしさを考えず、洋楽のポップスを作ること。英語の歌詞が乗ることも想定してメロディーを作り、歌の入る前に伴奏を仕上げています。
林は松原の歌入れには立ち会っていません。完成した曲を初めて聴き、19歳がこれほど大人びた歌を歌えるのかと驚きました。自身が洋楽を目指して作った旋律に、松原の声からジャズを感じる湿り気や歌謡ポップスの情感が加わった、と後に説明しています。
制作の中心にいたのは作曲家とレコード会社でも、最後に歌が入ると作品の印象が変わったのです。デビュー曲ですでに松原は、用意された伴奏へただ合わせるだけの歌手ではありませんでした。
当時、専属バンドのリーダーを頼まれた伊藤銀次も、まず完成済みのレコードを聴かされ、アイドルとして売り出す新人にこんな洗練された曲を歌わせるのかと驚いたと振り返っています。現場の人たち自身が、見せ方と実際の音楽の間にある意外さを感じていました。
『POCKET PARK』(1980年)には、このデビュー曲が収められています。リズムの心地よさの中で歌の主人公をどう立ち上げたかは、松原みきの歌い方で、この一曲に絞って詳しく扱っています。
1980〜82年――快活な歌から、言葉を立たせる歌へ
最初のアルバムで「都会的で大人っぽい歌手」という印象を残した松原は、そのまま一色に収まりませんでした。制作に携わった長岡和弘は、二作目『Who are you?』(1980年)では快活で等身大の明るさを前に出したと説明しています。
1982年の『Myself』では、「微熱が平熱」や「SEE-SAW LOVE」の歌詞と声の表情に、長岡はかわいらしさを見ています。「真夜中のドア」で作曲家を驚かせた大人びた声が、今度は軽やかな人物も演じる。同じ歌手の別の表情が、数年の作品に並びました。
その先で制作側が目指したのは、さらに別の方向でした。長岡は、1982年の『彩』から制作ディレクターを担当し、それまでのサウンドとリズムを押し出す作り方から、歌詞に焦点を置いた日本語のヒット曲を目指したと記しています。同じ頃、松原は各地のライブハウスで公演を重ねていました。
どこに聴き手の耳を向けるか、アルバムの作り手が意識して動かした転機です。ジャズを思わせる声や快活な人物像に加えて、日本語の言葉そのものを前に出す曲を目指しました。
1983年『REVUE』――前のテイクを聴き、もう一度歌う
『REVUE』の録音では、その変化が歌手自身の行動にも現れます。長岡によれば、松原は以前のボーカル・テイクをウォークマンで聴きながらスタジオに入り、もう一度歌ってからどちらを採用するか判断したいと求めました。
よい声を一回で出して終えるのではなく、録った歌を聴き返し、曲が求める情感に合うかを自分で選び直す。長岡は、そうして本人にしか分からない感情が込められたアルバムになったと振り返っています。『彩』で歌詞へ焦点を向けた翌年には、ボーカルの出来も自分で選び直していました。
1983年の「Sweet サレンダー」で鷺巣詩郎と仕事をしたときも、松原はいくつかの要望を明確に伝えています。鷺巣が伴奏を全面的に電子楽器で作る案を出すと、彼女は冒険を歓迎しました。声の録り直しと編曲の変更は同じことではありません。それでも、既に渡された曲をただ受け取るのでなく、歌の周囲にある音にも意見を持つ人になっていたことが分かります。
1984年――ロックへ踏み出し、ジャズでは低い位置に戻る
1984年の二作品は、単一の方向へ成長するという図では捉えにくいものです。『Cool Cut』では森園勝敏を迎え、従来の都会的な16ビート中心の音から、8ビートのロック寄りのバンド・サウンドに挑みました。長岡は、河口湖のスタジオにこもり、曲をセッションの中で作って録音したものも多かったと記しています。
その年の『BLUE EYES』では、以前から好きだったジャズのスタンダードを歌います。こちらは稲垣次郎がプロデュースし、前田憲男が編曲。ポニーキャニオンの作品説明は、英語の歌詞を、いつもより少し低めで落ち着いた歌声で歌ったと明記しています。『Cool Cut』のバンドの勢いとは対照的に、声を落ち着いた位置へ置いた作品です。

長岡は、この録音で松原が幸せそうに何度も歌っていた姿を覚えていました。デビュー作を「ジャズ好きの関西の女の子」が都会的なポップスを歌うアルバムと評した同じ人が、ここでは彼女の好きな音楽を主役に据えています。急に別の歌手へ転向したのではなく、以前からあった好みが録音作品の中心になったのです。
ロックのセッションとジャズのスタンダード。作品ごとに演奏の相手と声の置き場所を変えた1984年は、松原を「シティポップの声」一つで括れないことをよく示しています。
1988年『WINK』――歌う前から、仲間と曲を作る
ビクター移籍後のアルバム『WINK』で、1983年に出会った鷺巣と再び組みます。鷺巣の回想では、松原のほうから一緒に作りたいと申し出たそうです。しかも、単に編曲を任せるのではなく、固定メンバーを集め、事前にリハーサルをしてから録音することを望みました。
実際に、リズム隊の四人と松原は二度のリハーサルを行いました。最初は互いの主張を出し合い、次には合わせる方向へ進んだと鷺巣は記しています。松原はバック・ボーカルの人選にも関わり、アルバムのまとまりを強く意識していました。
松原が自ら作詞作曲した「Sorry」について、鷺巣は一番の歌の終わりをブルース由来の音使いで折り返す節回しに、彼女ならではの声を聴き取っています。バンドとの練習は制作手順だけの変更ではなく、歌の周囲の音を自分たちで確かめるための時間になりました。
デビュー時の「真夜中のドア」は、すでに出来た伴奏に彼女の声が入り、作曲家の予想を変えた歌でした。『WINK』では、歌が入る前の場に松原自身がいて、仲間の音まで一緒に決めようとしている。ここが二つの時期を隔てる大きな変化です。
鷺巣は、彼女が描いた輪郭どおりに作品が進んだと振り返ります。歌手が録音の最後に呼ばれるところから、歌う前に演奏者と曲の形を探るところへ。『WINK』は、その変化がアルバム全体に及んだ作品でした。
「真夜中のドア」が世界中で聴かれるようになった今も、彼女の歌はその一曲で止まりません。松原みきが変えてきたのは、持って生まれた声の種類というより、その声をどの言葉、どの伴奏、どの仲間とともに届けるかでした。19歳で作曲家を驚かせた声を、『WINK』では自らアルバム全体の中に置いていったのです。







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