1985年、はっぴいえんどが一夜限りで再結成し、大滝詠一は「12月の雨の日」をもう一度歌いました。
ステージの裏で聴いていた音楽プロデューサーの牧村憲一は、初期の録音と比べてテンポの感じ方や言葉の割り振りが違うと振り返っています。
かつてシャウトしていた曲を、今度はクルーナーのように歌っていた、というのです。
クルーナーとは、声を力いっぱい押し出すよりも、なめらかに語りかけるような歌手を指します。
確かに大滝の代表作『A LONG VACATION』には、この言葉が似合います。
けれども、若い日の歌がすべてシャウトで、1981年に突然やさしい声に変わったわけではありません。
初期の柔らかな歌に驚いた人もいました。
なぜ同じ人の歌に、そんな違った記憶が残っているのでしょう。
1970年代の録音と1981年の本人の言葉をたどると、声そのものを一方へ変えたというより、曲ごとに前へ出す顔を選んできた姿が見えてきます。
1970年、「朝」にはすでに柔らかな声があった
大滝は1970年にデビューしたはっぴいえんどで、ロックの強い歌も歌っていました。
1985年の「12月の雨の日」を振り返る牧村が、昔の歌い方をシャウトと呼ぶのも、その一面を知っていたからです。
一方、同じ1970年の「朝」は、別の印象を残しました。
後に大滝と作品を作る伊藤銀次は、初めて聴いたとき、日本語の響きの細やかさに驚いたと書いています。
声の力加減や唇の開き具合で、フレーズに濃淡をつけていたというのです。
ロックバンドの歌だから始めから終わりまで荒々しい、という説明には、この記憶が収まりません。
伊藤は大滝をクルーナーとして高く評価しながら、歪ませたロックの歌や、リズムを強く押し出すソウル風の歌も見事だったと見ています。
のちの大滝を考えるうえで大切なのは、この二つを年表の前半と後半へきれいに分けないことです。
1970年の段階で、声の力を抜く表現も、張る表現も持っていました。
その幅は、はっぴいえんど解散後のソロ作品にも続きます。
1975年の『NIAGARA MOON』は遊びのある曲を集めたアルバムで、1976年の「あの娘に御用心」には当時制作されたスタジオ映像が残っています。
大滝は懐かしい歌謡曲を静かに歌う人としてだけ、活動していたわけではありません。

出典:音楽ナタリー
1970年代後半、クルーナーだけを選んだわけではない
1977年のシングル「青空のように」を選び、大滝のクルーナーとしての声に注目したのは、ceroの髙城晶平です。
髙城には、はっぴいえんどのシャウターから、静かに朗々と歌う人へ移ったように聞こえました。
70年代のうちに、その変化を感じさせる録音があったわけです。
この歌を支える背景には、古いアメリカのポップスを聴き続けた時間もあります。
伊藤によれば、大滝ははっぴいえんど時代、出演した晴海のライブ会場で、安く売られていた大量の洋楽シングル盤を見つけました。
一度帰宅しても気になって会場へ戻り、まとめて手に入れたといいます。
日本では入手しにくかった曲に触れられたことが、その後の収集を広げる機会になりました。
髙城が「青空のように」に聴いた変化と、伊藤が「朝」に見つけた柔らかさ。
二つの話を合わせると、昔の歌を調べ、実際に自分で歌いながら、すでに持っていた表現を広げた歩みとして捉えられます。
その間も、リズムに乗って声を張る曲と、言葉を旋律の中へ溶かす曲の両方を試し続けました。
この時期の経験があるからこそ、1981年の『A LONG VACATION』を単なる「歌がうまくなった記録」として片づけられません。
大滝自身は、同作の「君は天然色」について、以前から自分にあった曲の型だと語っています。
新しいのは、そこにどんな言葉を乗せ、どんな人物として歌うかでした。
1981年、松本隆の物語を「演じる」
『A LONG VACATION』発売直後の取材で、大滝は、先に生まれた旋律と音のイメージを生かすには松本隆の詞が必要だったと話しています。
風景や若い男女のドラマを描く松本には、自分にないものがあると考えたのです。
曲を作る自分と、言葉の中の人物として歌う自分との間に、別の書き手を迎えました。
そこで大滝は、自分の身に起きたこととして歌うのではなく、松本が書いた世界を演じました。
だからこそ真剣に歌えた。
自分で詞を書いたら、同じようには歌えなかっただろう、と本人は説明しています。
以前のコミカルな「ナイアガラ」の印象を持つ聴き手には、大きな変身に見えたかもしれません。
しかし本人にとっては、曲の作り方まで一から取り替えたというより、持っていたメロディーの型に、別の人の物語を迎え入れた変化でした。
「君は天然色」は、その『A LONG VACATION』で最初に録音した曲だったと大滝は振り返ります。
本人が結びつけたのは、1972年のソロ作に入れた「ウララカ」でした。
一から違う曲の作り方を覚えたのではなく、前からあった自分の型に、松本の書いた言葉が乗りました。
ただし、全曲で詞をそのまま受け取ったわけではありません。
「FUN×4」では大滝が曲の考え方を伝え、松本が場面を作り、さらに大滝が言葉の一部を変えたと説明しています。
他人の世界を演じることと、自分もその世界を作ることが、一枚の中に並んでいました。
言葉を演じることは、歌詞を一文字ずつ堅く発音することとも違います。
大滝と長く親交のあった萩原健太によれば、大滝は歌詞をローマ字にして音の並びを見つめ、母音が続くところをつなげる工夫もしていました。
「恋するカレン」でのその具体的な扱いは、大滝詠一の歌い方で詳しく紹介しています。
ここで起きた変化は、日本語を扱う癖を捨てたことではありません。
その技を、松本の恋の場面にも持ち込んだことです。
1984年の作品を経て、昔の曲に戻る
1984年の『EACH TIME』には「ペパーミント・ブルー」が収められています。
このアルバムの制作中も、大滝は松田聖子、薬師丸ひろ子、ラッツ&スターなどに曲を提供していました。
1984年の取材では、CMや他の歌手への提供曲を、自分の音を試す場にもしていたと話しています。
自分名義の歌だけを作り続けるのではなく、違う歌手の声を通す仕事とも行き来していたのです。
同じ取材で、大滝は、新しさだけを発見することより、それまで歩いた道が現在につながっていることを見直したとも語っています。
昔からの曲の型や、他の歌手との制作を、現在の作品へ持ち込む。
1981年のヒットの後も、過去の経験は使い終わったものになっていませんでした。
そして1985年、はっぴいえんどとして「12月の雨の日」を歌う機会が来ます。
この日の演奏はライブ盤『THE HAPPY END』にも残りました。
牧村は、当時の演奏のテンポ感や譜割りが初期録音と違った理由を、大滝の歌い方の変化に見ています。
1981年の曲だけでなく、1970年の曲へ戻ったときにも、歌の運び方はかつてのままではなかったのです。
この再結成は、かつてのバンドをそのまま再現した公演ではありませんでした。
長くドラムから離れていた松本隆を支えるため、演奏には打ち込みも使われました。
牧村によれば、細野晴臣が音をまとめ、SHI-SHONENのメンバーが支えていました。
初期の四人だけの演奏を再現するのではなく、メンバーがその後に築いた音楽や人とのつながりも、舞台に入っていたのです。
国立競技場の広い会場では、牧村が言うように観客の姿もステージからは遠かった。
その条件で、牧村は大滝の歌に初期盤とは違う譜割りを聴き取ったのです。
長く大滝と親しかった萩原も、この再結成での歌をクルーナーと呼んでいます。
ただ、最後の「さよならアメリカ さよならニッポン」では、大滝が英語で呼びかけ、若い音楽家たちのコーラスを導く場面がありました。
物語を静かに歌う声へ一本化したのではなく、人と歌を交わす、もう一つの活発な顔も残っていたと分かります。
1970年の「朝」にあった柔らかな言葉、ロックのシャウト、1970年代後半に目立ったクルーナー、松本隆の人物を演じた1981年、昔の曲を違う譜割りで歌った1985年。
これらは一直線に前の声を捨てていく話ではありません。
「12月の雨の日」を歌い直したとき、若い日の曲の中に、その後の歌い方まで入っていた。
その重なりが、大滝詠一の変遷を面白くしています。







コメント