「千の風になって」を長く歌い続けてきた秋川雅史は、初期の自分について、必要以上に声を張り上げていたと振り返っている。
クラシックの声の魅力を知ってほしくて、歌の中で自分を大きく見せようとしていたのだ。
2026年には、同じ曲の優しさを少しずつ表せるようになったと語った。
ところが、力をそぎ落として歌うようになった時期にも、本人は声の成長を実感していたという。
力強い声を磨くことと、その力を歌の中で控えることは、秋川にとって両立するものだった。
その選択を理解するには、代表曲が生まれる前に、何のために歌おうとしていたのかまで遡る必要がある。
声を失いかけた留学時代に、歌う目的を見つめ直した
声楽家の父のもとで育った秋川は、音楽大学を経てイタリアへ留学した。
当時はクラシックに打ち込み、仲間との会話もクラシックの話題になるほどだった。
けれども、声に恵まれたまま順調に舞台へ進んだわけではない。
2009年のテレビ番組で本人が明かしたところでは、留学して3年ほど経ったころ、声に雑音が入る異変が起きた。
帰国して治療を受けても、すぐには回復しなかった。
その苦しい時期に支えになったのが、一流の歌手たちの演奏だったという。
自分が歌から励ましを受け取ったように、聴く人を元気にできる歌手になりたい。
声を取り戻すための治療を続けながら、そう考えるようになった。
3度の手術を経て声を取り戻した経験は、歌えることへの受け止め方も変えた。
2018年の取材では、それまで父から受け継いだ声を当然のように思っていたが、病気をしてからは、歌えることや聴いてもらえることに感謝するようになったと話している。
後の秋川が大切にする「聴く人に何を持ち帰ってもらうか」という問いには、歌手自身が聴き手として救われた経験があった。
日本の歌へ広げたのは、クラシックの声を届けるため
コンサート活動を始めると、秋川はクラシック以外の曲も選ぶようになる。
大きな刺激になったのは、ドミンゴ、カレーラス、パヴァロッティの3大テノールが、日本の公演で「川の流れのように」を歌ったことだった。
日本の歌とテノールの声が結びつく可能性を感じ、自分の舞台にも取り入れていった。
背景には、クラシックの歌手が限られた聴衆にしか知られていないことへのもどかしさもあった。
2023年の取材で秋川は、歌謡曲やロックの歌手が広く知られる一方、クラシックの世界は小さいと感じていたと明かしている。
誰もが知る歌を、自分が磨いてきた声で届ける。
それは、クラシックから離れるためではなく、その声の魅力をより多くの人へ伝えるための選曲だった。
曲の範囲を広げるには、別の歌手の表現を学ぶ必要もある。
2011年のラジオでは、音楽を聴くときは声の出し方や歌い回し、編曲まで分析し、自分ならどう歌うかを考えると話した。
共演相手のジャンルへ自分を合わせきるのではなく、互いの持ち味を出した結果として生まれる面白さも大切にしていた。
声の土台は保ちながら、曲と相手に応じて表現を考える姿勢が育っていく。
2005〜2007年:客席の涙が教えた「千の風になって」の力
「千の風になって」を歌い始めたのは2005年7月。
同年のアルバム『威風堂々』に収録し、2006年にはシングルとして発表した。
『威風堂々』には「津軽のふるさと」や「いい日旅立ち」も並んでおり、当初は日本の歌を届ける幅広いレパートリーの一曲だった。
2026年に秋川が振り返ったのは、初めてコンサートでこの曲を歌ったときの客席だ。
メロディーを重視して音楽を作っていた自分の前で、多くの人が歌詞を受け止めて涙を流していた。
その姿に触れ、歌詞を見つめ直すようになったという。
ただ、初めは言葉に関心がなかった、と捉えると実際の歩みから離れてしまう。
2007年の取材では、出会ったときから詩の力を感じ、この曲によってその大切さをさらに実感したと話していた。
頭で理解していた言葉の力を、客席の反応によって深く知った、と考えるとつながる。
2006年末のNHK紅白歌合戦を経て、翌年には歌を聴きたい人がコンサートへ集まるようになった。
秋川が良い曲を紹介していた段階から、客席がその歌を求めて訪れる段階へ進んだのだ。
代表曲を持つ喜びとともに、歌手の声をまだ知らない人にも届く舞台が広がった。
ここで、初期の秋川が既に持っていた考えにも目を向けたい。
2007年の時点で、言葉を丁寧に旋律へ置き、その意味をどう受け取るかは聴く人に委ねると語っていた。
聴き手を大切にする姿勢が、成功してから突然生まれたわけではない。
その一方で、自分の声の迫力を知ってもらいたいという思いも強かった。
言葉への配慮と声を示したい気持ちが同居していたからこそ、後年になって歌の中の力加減を振り返ることになる。
2011〜2014年:「あすという日が」と、代表曲の新しい共演
2011年に発表した「あすという日が」には、歌で聴き手を励ましたいという目的が、はっきり表れている。
もとは山本瓔子の詞に八木澤教司が曲を付けた合唱曲だった。
東日本大震災後、宮城県の八軒中学校の生徒たちが避難所で歌ったことなどを通じて広まり、自分に何ができるかを考えていた秋川もこの曲に出会った。
自分の歌声を知ってもらうための曲を探すだけでなく、既に人々の間で歌われている曲の思いを受け取り、届ける。
「あすという日が」を選んだ背景には、そうした歌い手の役割が見える。
「千の風になって」の成功の後も、聴く人に必要とされる歌を探す歩みは続いていた。
2014年のベストアルバムでは、「あすという日が」を夏川りみとのデュエットとオーケストラの共演で収録した。
別の歌手と声を重ねることで、合唱から受け取った曲を、さらに違う歌の形へ運んでいる。
夏川りみとのデュエット版(2014年『BEST ALBUM』収録)。
同じアルバムには、東京交響楽団との「千の風になって」も加わった。
初期の録音を聴き返すだけでなく、新しい共演の中で代表曲を聴ける作品になった。
2023年:力を引くことと、声を伸ばすことが同時に進む

出典:テイチクエンタテインメント
2023年のインタビューで、秋川は初期の「千の風になって」を振り返り、自分の魅力を伝えようと、不必要に声を張っていたと認めた。
今は歌手として知ってもらえたことで、曲の姿を自然に表せばよいと考えるようになったという。
歌う力がなくなったからではなく、自分を認めてもらうために必要だと思っていた力を、引けるようになったのだ。
それでも、クラシックの声への情熱は変わらない。
2021年ごろに本人が始めたYouTubeチャンネルは、クラシックを専門に歌う場だった。
検索すると歌謡曲を歌う自分ばかりが出てくることに気づき、クラシックの曲も届けようと、自ら撮影や編集をするようになったという。
そこでは、息子の秋川風雅のピアノと共演した「誰も寝てはならぬ」なども公開している。
2022年9月のサントリーホールでの演奏は、本人の公式チャンネルでたどれる。
代表曲の力をそぎ落とす一方で、声そのものの可能性を試す舞台も持ち続けていた。
55歳だった2023年、本人は難しい曲を歌えるようになることに成長を感じ、練習を楽しんでいると話した。
声を伸ばすことと、すべての曲でその力を見せきらないこと。
この二つを分けて考えられるようになった点に、長く歌い続けてきた秋川の変化が表れている。
2026年:同じ曲の中で、優しさを出せるようになった
2026年の『徹子の部屋』で秋川は、「千の風になって」を意識して別の歌い方へ変えたつもりはないのに、知らないうちに変わっていたと話した。
若いころにはクラシックの声の迫力を聴かせたいという力みがあり、今は曲の持つ優しさを少しずつ出せるようになったという。
最初の客席の涙、広く知られるようになった自分の声、別の曲や共演者との出会い。
その経験を重ねる間に、同じ代表曲の中でも、声の力をどこまで前に出すかが変わっていった。
かつて演奏を聴いて励まされた秋川が、今度は自分の歌で聴き手に力を渡す。
強い声を磨きながら、その曲にふさわしい優しさを探してきた歩みが、「千の風になって」に重なっている。
一曲の中で秋川が言葉と感情をどう扱うかは、秋川雅史の歌い方で詳しく見ていく。







コメント