自宅のパソコンへこっそり吹き込んでいた声が、映画のデュエットを担い、生バンドの演奏に飛び込んでいく。
Daokoの歩みには、歌う場所が変わるたびに、自分の声でできることを確かめ直した経験がある。
初期の息継ぎの課題から、QUBITで複雑な演奏と声を揃える試み、自分でビートを作る制作まで。
声をどこへ置き、何を任せるかという選択の変化を、本人の言葉と作品からたどる。
家で小さく歌った声から、呼吸を学び直していく
Daokoが音楽を投稿し始めたのは、中学生の頃のニコニコ動画だった。
最初はボーカロイド曲の「歌ってみた」で、ほかの投稿者との違いを出したい気持ちとニコラップへの興味から、徐々にラップへ向かったという。
歌を入口に、言葉を置く別の方法を見つけた人である。
当初は家族共用のパソコンの内蔵マイクを使い、家族のいないときに録っていた。
マイクに近づき、こっそり歌った結果が囁くような声だった、と後年の本人は説明している。
最初から完成した技法として選んだ声ではなく、その環境でできる歌い方から始まったのだ。
メジャーレーベルに所属した頃にはボイストレーニングも始め、17〜18歳頃から同じ先生に習うようになった。
初期は声がか細く、息継ぎも多かったという。
息を吸うときに大きな音を立てなくてもよいと教わるなど、歌の中での呼吸を少しずつ学び直した。
後の表現の広がりには、こうした地道な準備があった。
2015年のメジャーデビュー盤『DAOKO』に入った「水星」は、tofubeatsの原曲を自分の言葉で作り直した曲だ。
インディーズ時代に試した音源が周囲やライブで好評だったため、アルバムに収めたという。
歌詞を書いた小田急線の車内も曲の世界に入り、借りたトラックに自分の暮らしの視点を重ねた。
当時は、自分が歌いたい暗さや毒気を保ちながら、広い聴き手へ届くポップさを混ぜることも意識していた。
聴き手との距離を縮め、共作者の歌を自分のものにする
2016年の「BANG!」では、ライブの客席を含めて曲を体感できるようにしたいと考え、手拍子を使う案が生まれた。
それまでは自分と観客の間にスクリーンを下ろして映像を投影するなど、距離を取りながら見せる演出もしていたという。
声を届ける相手と同じ時間を過ごすことが、曲の作りにも入ってきた。
翌2017年の「打上花火」では、米津玄師との本格的な掛け合いが新しい挑戦になった。
もともと米津はDaokoの声だけで曲を支えられると考えていたが、制作の途中でデュエットの形へ進んだという。
Daokoは、歌詞の情景を思い浮かべやすく、言葉に助けられながら歌えたと話している。
自分で書いた言葉を運ぶラップに加え、共作者の描いた旋律や物語を、自分の声で受け取る経験になった。
同じシングルに収めた英語詞の「Forever Friends」は、半年ほど歌い込んだ曲だった。
最初は英語を母語とする人に近い発音を目指したが、最終的には自分の声や個性が届くよう、日本人が歌う英語としての響きへ調整したという。
繰り返し歌う中で、曲を自分のものにできたと振り返っている。
歌える曲が増えるだけでなく、どこまで別の歌に近づき、どこに自分を残すかを選ぶようになった。
2019年、生バンドに声が負ける不安を越えた
生演奏との関係が大きく変わったのは2019年だ。
2月にギャラリーでアコースティックライブを行い、少人数の観客の前で、伸びやかに歌う楽しさを知った。
3月にはYMOのトリビュート公演「Yellow Magic Children」に参加し、片寄明人と「在広東少年」などを歌った。
それまでDaokoは、生バンドでは自分の声が負けてしまうのではないかと考えていたという。
難しい曲を歌い切れるかという不安もあったが、ここでは自分の歌い方でやってみようと決めた。
共演者の演奏に支えられ、生でも歌えるかもしれないと感じた経験が、その後のバンド編成への意欲になった。
「在広東少年」/『Yellow Magic Children #1』(2019年公演のライブ音源)。
片寄への相談を経て、7月には網守将平の鍵盤と永井聖一のギターで、自分の曲をリアレンジした公演を行う。
秋のツアーでは、さらにベースやドラムを含む編成になった。
演奏者同士の熱が高まる中で自由に歌うと声が伸び、以前は歌いづらかった曲も歌えたと本人は話している。
録音済みの音へ声を置く経験に、その場で動く演奏を受けて歌う経験が加わった。
「Fog」/2019年9月13日、東京・ダンスホール新世紀。

公式プロフィール掲載写真。
写真出典:DAOKO.JP公式プロフィール
『anima』で、自由さと緻密なリズムの両方を試した
2020年の「御伽の街」は、日常と空想を行き来する言葉をラップで運ぶ曲として発表された。
映像では会社勤めの女性が夜の街へ出る物語を、Daoko自身が企画や衣装から考えている。
「水星」から続く、生活と音楽の間を行き来する視点を持ちながら、作品全体への関わりも深めていた。
同年のアルバム表題曲「anima」では、網守から届いたデモに感動する一方、どう言葉を乗せればよいのか分からなかったという。
展開の複雑なビートへ、自分のラップがなかなか収まらない。
片寄や網守の助けを得て何度も試し、リズムへ厳密に合わせることと韻を意識して完成させた。
生バンドで伸びやかに歌えるようになった後にも、別の難しさはあった。
共演者の音に気持ちを乗せるだけでなく、言葉を音として捉え、細かな位置まで合わせる必要がある。
Daokoは後年、この「anima」をQUBITのもとになった曲と振り返っている。
演奏を通して始まった関係が、歌の新しい課題を持ち寄る共同制作へ育っていった。
QUBITでは、準備した声を一つの楽器として使う
2019年に始まったサポートバンドとの活動を経て、2023年にQUBITが始動した。
Daokoも以前からバンドを望んでおり、永井がメンバーへ声をかけたことが結成につながったという。
ソロの曲を支えてもらう場から、バンドのボーカリストとして参加する場へ、立ち位置が変わった。
「Mr. Sonic」のデモには、すでにボーカロイド的な仮の歌が入っていた。
それを自分の声に置き換えるとどうなるかが想像しやすく、歌う手掛かりになったという。
一方、QUBITの曲には、楽器と声が入るタイミングをきちんと揃えなければならない難しさもある。
Daokoは録音で「機械と人間の狭間」という設定を持ち、声をより楽器として扱おうとした。
この頃の本人は、歌だけを目立たせるより、曲全体がよいと思ってもらえることを大切にしていると話した。
そのために、自宅で仮歌を録り、共作者に聴いてもらってから本録音へ進む。
違う歌い方の提案があれば家で試し、方向を共有したうえで、現場ではさらに自由な歌や大人びた表情も試すという。
歌い方の選択肢が増えたことが、相談しながら曲へ声を合わせる余裕につながっている。
初期には、意識してもまだできない表現があった。
練習と経験を重ねた今は、声を強く主張するだけでなく、シンセサイザーのように周囲の音を支えることも選べる。
声を小さく録るところから始まった人が、作品のために声の役割を決める歌い手になってきたのである。
自分でビートを作り、歌の土台から共作者へ渡す
2024年の『Slash-&-Burn』は、初のセルフプロデュースアルバムになった。
Daokoは、いったん離れていたパソコンでの音楽制作に取り組み直し、本格的にビートも組んでいる。
以前の曲を磨き直したものも含め、自分のこれまでをまとめる意味もあったという。
「天使がいたよ」は、自分の名前を初めて編曲にも載せた曲だ。
HIDEYA KOJIMAがデモを磨くように仕上げたため、完成形も本人の作った音に近いと説明している。
声だけを渡すのではなく、歌を置きたい音の土台まで具体的に作り、そこから共作者と仕上げるようになった。
ただ、自分で作る範囲が広がると、聴きすぎて作品を客観的に判断しづらくなる難しさもあったという。
Daokoは編曲者の提案を受け、他者の意見も必要だと感じながら制作を進めた。
他人の曲へ言葉を乗せていた時期から、自作の音を渡す時期へ進んでも、人と音楽を作る関係は続いている。
Daokoの変遷には、ラップが歌へ置き換わったという一方向の流れはない。
呼吸を学び、共作者の旋律を歌い、生演奏へ飛び込み、今度は細かな拍に声を揃える。
その経験が、自分の歌に必要な音を作ることにもつながってきた。
「水星」で言葉と音の距離をどう捉えるかは、Daokoの歌い方で一曲に絞って見ていく。







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