「恋におちて -Fall in love-」を歌った人は、その声のまま一曲を繰り返す道も選べたはずだ。ところが小林明子は、ヒットのあと英国でプログレッシブ・ロックを志し、やがて自分の声を引き立てる楽器としてハープを選んだ。2025年の40周年公演を前に、今の自分を見てほしいと語っている。変わったのは単純な音域ではない。誰のために、どんな編成で、どちらへ向かって歌うかという選択だった。
歌手になるつもりではなかった曲が、声の出発点になった
小林はもともと、別の歌手へ提供するつもりで「恋におちて」の旋律を書いた。企画がなくなり、約一年後に制作担当者から「君の声で」と勧められて自ら歌うことになる。その後にドラマ『金曜日の妻たちへIII』の主題歌へ決まった、という順序を本人は明かしている。最初からドラマの女性を演じるために作られた曲ではなかった。
作曲用のデモでは、歌詞の代わりに思いついた英語らしい言葉を乗せた。ドラマ側はその英語の雰囲気を好み、レコード会社は日本語を交えることを望んだ。湯川れい子による詞が加わるまで、曲の言葉は何度も形を変えた。小林自身は作曲家としての意識が強く、歌手としての自分を当然のようには考えていなかった。広く知られるようになった歌声の始まりには、予定外の歌手デビューがある。
彼女は学生時代にカーペンターズやリンダ・ロンシュタットをコピーして歌っていた。1988年にはリチャード・カーペンターのプロデュースで『City of Angels』を発表する。初期の小林を一曲のドラマ主題歌だけで捉えると、この洋楽を歌ってきた土台が見えなくなる。

英国で別名義を選んだのは、好きな音楽を自分で歌うため
1990年代初頭、小林はロンドンへ移り、holi名義でも活動した。本人が理由として挙げるのは、中高生の頃から好きだったプログレッシブ・ロックを、自分の表現としてやりたいという思いである。「恋におちて」の成功を否定したのではなく、ヒット曲が示した歌手像だけでは収まらなかった。
現地ではスティーヴ・ジャンセンやミック・カーンらとつながり、音楽を作った。2001年のアルバム『Beloved』にも、その時期を経た作品が残る。ここで「1985年より声が力強くなった」とは言えない。録音と経歴だけから音色の変化を決めることはできないからだ。確かな変化は、与えられたドラマ主題歌を歌う立場から、自分が求める音楽と共同制作者を選び、歌う場を作る立場へ移ったことにある。
声を大きくする代わりに、声が届く編成を探した
ロンドンで知り合った日本人のハープ奏者と音を合わせたとき、小林はその音色に強く惹かれた。本人は、自分の声は大きくなく、バンドでは埋もれてしまうと説明する。だからといって自分でピアノを弾けば、歌と演奏の両方に集中しにくい。ハープこそ自分の声を引き立てる、と考えたという。
これは「弱い声を鍛えて強くした」という物語ではない。声を変えるより、声との釣り合いを考えて伴奏を変えた。2013年のアルバム『勇気をあげたい』ではハープを前面に出した編曲で、「恋におちて -Fall in love 2013-」をセルフカバーしている。1985年の原盤と同じ曲でも、後年には別の編成でその曲と向き合ったことが作品資料から確かめられる。二つの録音を聴き比べるなら、歌手の年齢だけでなく、声を囲む音の違いにも耳を向けたい。

40周年で向いたのは、曲を作る内側から観客のいる外側へ
2025年、小林は40周年記念公演を初めて企画した。20周年も30周年も大きく祝わなかった理由として、もともと作曲家で、パフォーマーの意識が強くなかったことを挙げる。一方で、ボリウッド・ダンスを始めて舞台に立ち、外へエネルギーを向ける楽しさを知ったことが、記念公演に踏み出すきっかけになったと話した。
公演前の本人説明では、近年の相棒であるピアニスト丸尾めぐみとの二人を基本に、楽器と声のバランスを考えてDTMも使う予定だった。ハープ一択へ固定したわけではない。必要なのは編成の名前ではなく、自分の声が埋もれず、今の表現を観客に届けられることなのだろう。本人は全アルバムを振り返り、これまで舞台で歌ったことのない曲にも取り組む考えを示していた。

1985年の小林は、作曲した曲を勧められて歌うことになった。英国では自分が歌いたい音楽のために環境を変え、ハープと出会ってからは声を生かす編成を選んだ。そして40周年には、観客へ向けて現在の自分を見せようとした。代表曲は彼女の入口だが、そこだけが小林明子の歌の結論ではない。「恋におちて」の一曲に含まれる日本語と英語、ためらいを表す言葉をどう受け取るかは、小林明子の歌い方で詳しく考える。

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