杉山清貴の歌声はどう変わった?「抑えろ」から自由、そして再びオメガへ

緑のシャツ姿の杉山清貴 シンガー

杉山清貴さんは、若い頃とほとんど変わらない声で歌い続けているように語られることがあります。

たしかに、昔の曲を現在のライブで聴いても、メロディーの輪郭や言葉の置き方は驚くほど崩れません。ところが本人の認識はもっと現実的です。若い頃の声は今より細く、現在は声に厚みが出た。高音も、若さだけで出していた頃より技術を覚えた今のほうが楽だと話しています。

変わっていないのではありません。変わる声を使って、曲の印象を変えない方法を覚え続けてきたのです。

その歩みをたどると、杉山さんの40年以上は「抑えて歌え」という他人からの要求に始まり、自由を求めてそこから離れ、最後には同じ制約を自分の意思で引き受け直す物語だったことが見えてきます。

1983年以前|海の声になる前は、前へ出るロックボーカルだった

杉山さんの歌手人生を、最初から涼しげなシティポップの声として始めると、大事な部分を見失います。

デビュー前の杉山さんはバンドで歌い、仲間の記憶には、澄んだ声だけでなく、強さやステージ上の勢いを持つボーカリストとして残っています。声を前へ出し、ライブの熱量で聴き手を引っぱる土台が先にあったのです。

1983年、杉山清貴&オメガトライブとしてデビューすると、その声は徹底して別の枠へ入れられます。制作を主導したプロデューサーから求められたのは、思い切り張り上げることではなく、抑えて歌うことでした。

しかも、ただ静かにすればよいわけではありません。歌詞の主人公がいる場所、目の前の景色、感情の動きを細かく設定し、その世界から声がはみ出さないようにする。一つのフレーズだけで長い時間を使うほど、録音の歌は設計されていきました。

若い杉山さんが持っていた勢いは消されたのではなく、細い水路へ通されました。その結果、強い声なのに暑苦しくないという、後の代名詞が生まれます。

1983〜1985年|大成功の中で「自分の歌ではない」という違和感が育った

オメガトライブは、杉山さん個人のバンドというより、作詞・作曲・編曲・演奏・ビジュアルを含めて作られたプロジェクトでした。

その完成度の高さによって「SUMMER SUSPICION」「君のハートはマリンブルー」「ふたりの夏物語」といった曲が生まれます。一方で、バンドとして自分たちの音楽を作りたいメンバーにとって、用意された世界へ正確に収まることは、次第に窮屈になっていきました。

杉山さんの声も同じです。プロデューサーの指示によって、情景を映す録音の歌は磨かれました。しかし、その上達は自分の自由が増えることと同じではありませんでした。

人気が頂点にある1985年に解散したのは、成功していなかったからではありません。成功した型があまりに強くなり、その中に留まり続けることが難しくなったからです。

ここが後の再結成を面白くします。若い頃には抜け出したかった「オメガの声」を、杉山さんは数十年後、自分で選び直すことになります。

アコースティックギターを抱える杉山清貴

1986〜1989年|ソロで声が解放され、録音とライブの距離が縮まった

解散後、杉山さんは当初から綿密なソロ計画を持っていたわけではありません。それでも1986年、「さよならのオーシャン」でソロ活動を始めます。

この曲が重要なのは、オメガトライブの延長に聞こえるからではなく、杉山さん自身が作曲を引き受ける転機になったからです。曲がなかなか完成せず苦しみましたが、一曲を書き上げたことで、その後の作曲は前へ進みやすくなったと振り返っています。

声にも変化が起きます。1987年頃のインタビューでは、オメガトライブ時代に身についた「録音で作る歌い方」とライブでの歌い方の差を意識し、アルバム『SHADE』では細部を作り込みすぎず、両者の距離を縮めようとしていたことが語られています。

オメガ時代の歌が、決められた情景へ自分を入れていく作業だったとすれば、ソロ初期は自分の体温を録音へ戻す時期でした。声量が急に増えたという単純な変化ではありません。歌の中で、どこまで自分で決めるかが変わったのです。

1990年代〜2000年代|ハワイとアコースティックが、歌を生活へ近づけた

1990年代から2000年代半ばにかけて、杉山さんは日本とハワイを行き来する生活を送ります。

ハワイでは、音楽は特別な舞台だけにあるものではありません。人が集まり、誰かが楽器を持ち、日常の延長で歌が始まる。作られたイメージの中で歌ってきた杉山さんにとって、音楽を暮らしの側へ戻す時間になりました。

2000年代のアコースティックな活動も、この変化とつながっています。楽器が減れば、ボーカルはかえって隠れられません。それでも大げさに歌い直すのではなく、原曲のメロディーと言葉の割り振りを守る。音数が少ないぶん、若い頃に録音で作られた歌の骨格がよく見えるようになります。

2003年の「SUMMER SUSPICION」は、1983年の公式映像と同じ曲でありながら、置かれている空気が違います。ここで比べたいのは、どちらが上手いかではありません。大がかりな制作の中で成立した曲を、少ない音と現在の身体へどう持ち帰ったかです。

2016〜2023年|自分で作り切ったあと、もう一度「人に委ねる」歌手になった

2016年のアルバム『OCEAN』で、杉山さんは自分名義でやりたかったことを一度出し切った感覚を持ちます。

普通なら、その完成形を守りたくなるところです。杉山さんは逆へ進みました。外部のプロデューサーや若い作家に曲を委ね、自分が普段なら選ばないキーや曲調を受け入れます。自分ですべてを決める「アーティスト」から、渡された曲を声で成立させる「シンガー」へ比重を移したのです。

2023年の「Nightmare」は、その選択がよく表れた曲です。速い言葉、高めのキー、現代的な音像。かつての海辺のイメージへ安全に戻るのではなく、曲のスピードとグルーヴへ自分の声を入れています。

一方、歌詞を置くときには、デモの歌い回しを丁寧に覚え、言葉をパズルのようにはめていく。若い頃は他人から細かく決められることに反発した歌手が、今度は曲の良さを生かすため、自分の意思で他人の設計を学んでいます。

自由とは、何でも好きに変えることではない。その曲に必要なら、自分から制約の中へ入れることだという成熟が見えます。

腕を組んでインタビューに応じる杉山清貴

2024年|「オメガの声」は、戻ったのではなく作り直された

2024年、杉山清貴&オメガトライブは大規模なツアーを行いました。

そこで杉山さんは、声そのものは出るものの、オメガトライブの楽曲に必要な声へ合わせるまで、リハーサルに6日ほどかかったと話しています。

この発言は、「昔と変わらない声」という称賛より興味深いものです。

オメガの楽曲は、林哲司さんら制作陣によって細部まで組み上げられています。そこでは、ソロ曲のように自分の感覚で自由に歌えばよいわけではありません。声を出す能力が残っているだけでは足りず、その世界の温度、言葉の距離、力を入れない位置まで呼び戻す必要があります。

若い頃の杉山さんにとって、それは外から押しつけられた型でした。2024年の杉山さんは、その型の価値を理解したうえで、自分から入り直します。

同じ「抑えて歌う」でも意味は正反対です。技術だけが戻ったのではなく、制約との関係が変わったのです。

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2026年|変わらないために、新しい声を使い続ける

2026年、杉山さんはソロデビュー40周年を迎え、全国ツアーを続けています。

現在の声は、若い頃の細い明るさをそのまま保存したものではありません。本人が語るように厚みが増し、高音の出し方も経験によって変わっています。それでも昔の曲が別人の歌に聞こえにくいのは、原曲のメロディーや言葉の置き方を安易に変えないからです。

キーやフレーズを守ることは、若さを演じることとは違います。現在の身体に合わせて声の出し方を調整しながら、曲が持つ記憶の形を守る作業です。

オメガトライブで作られた声から自由になり、ソロで自分の声を探し、やがて他人の曲へ自分を委ね、最後にはオメガの型まで自分の意思で引き受ける。杉山清貴さんの歌唱変遷は、声が細くなったか太くなったかだけの年表ではありません。

誰が歌を決めるのか、その答えが変わってきた歴史です。

現在の杉山さんが昔の曲を自然に歌えるのは、過去へ戻れたからではありません。戻れないことを知ったうえで、何を変え、何を変えないかを選び続けているからです。

その選択が実際の歌い方にどう表れるかは、杉山清貴の歌い方・発声分析で詳しく解説しています。

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