春猿火を「力強いラップの人」とだけ捉えると、曲の中でしている仕事が見えにくくなります。
歌っている途中にラップへ入り、また旋律へ戻る「オオゴト」。
思い切った声を求められた「Lift Up」。
人に寄り添う「台風の眼」と、相手と掛け合う「覚醒」。
同じ歌手でも、曲ごとに言葉の届け方を選んでいます。
本人が録音の難しさや意図を具体的に語った曲から、その使い分けを見ていきます。
「オオゴト」は、歌とラップの境目を休み時間にしない
「オオゴト」について春猿火は、最初から最後まで間奏がなく、歌ってラップして、終盤では速いラップが続く曲だと説明しています。
初めて向き合ったとき、自分に歌えるだろうかと疑ったそうです。
録音だけで完結する曲ではなく、ライブで歌うと息を入れる場所も難しく、スタッフに相談したと振り返りました。
ここで大切なのは、歌の部分を優しく、ラップの部分を強く、と機械的に二分しないことです。
曲全体を途切れさせないまま、旋律で伝える言葉とリズムで畳み掛ける言葉をつなぐ。
歌とラップの両方ができるという肩書きより、この接続を一曲の流れとして成立させることが、春猿火に与えられた課題でした。
息継ぎの場所を探したという本人の話からも、それが単なる声色の変化ではなく、実際の演奏を伴う選択だと分かります。
「オオゴト」の公式ライブ映像には、音楽的同位体・羽累とのバージョンもあります。
スタジオ版をそのまま再現する場面としてではなく、ほかの声と曲を分け合う場合にも、歌とラップの往復という設計を確かめられる映像です。
一人で歌い続ける原曲と見比べるなら、どこで旋律へ戻り、どこで言葉を畳み掛けるかに注目すると、曲の複雑な組み立てをつかみやすくなります。
「Lift Up」で求められたのは、きれいに整えることの先
トラップ調の「Lift Up」は、春猿火自身が難しかった曲として挙げています。
曲を手がけたたかやんから、もっと振り切ってよいと促され、これまで体験していない歌い方に戸惑ったそうです。
本人の言葉では、この曲は自分でも聴いたことのない声や歌い方を引き出した作品でした。
声を大きく出すことと、曲が要求する人物を大胆に見せることは同じではありません。
春猿火がここで試したのは、普段の慎重さを残したまま少し強く歌うのでなく、曲のテンションに合わせて思い切ることです。
同じ声でも、どこまで振り切るかが表現になります。

画像出典:心眼の公式作品ページ
「台風の眼」は、強い言葉を弱い経験から歌う
「台風の眼」は、春猿火が自分の性格や世の中への思いをたかやんに話し、その内容をもとに作られました。
本人は、自分には暗い記憶が多いと語りつつ、同じ気持ちを抱える人を励ます歌にもなったと説明しています。
声が強く聞こえる曲であっても、そこで語る人物を最初から無敵の主人公として扱ってはいけない理由がここにあります。
春猿火は、歌うことで普段は隠れている自分になれるとも話しています。
「台風の眼」の力は、弱さと無関係な叫びではなく、弱さを持つ側から人へ声を掛けるところにあります。
聴き手を鼓舞する言葉の前に、それを必要としていた本人の経験があります。
勢いよく言い切る箇所にも、自分自身を励ます思いが重なるのです。
同じく疾走感のあるロック曲「居場所」については、歌うことでしか居場所を感じられなかった自分から、孤独を抱える人へ手を差し伸べる歌だと説明しています。
二曲を並べると、強い伴奏の中で声を前へ出すことにも、怒りを放つだけではない役割があると分かります。
「台風の眼」では暗い感情を認めながら先へ進み、「居場所」では独りでいる相手に声を掛ける。
言葉の相手を意識すると、同じ力強さの中にある呼びかけ方の違いまで追えます。
「覚醒」では、相手の声を受けて言葉を渡す
「覚醒 feat.さなり」は、同世代の人が抱える不安や葛藤を歌うために、春猿火がさなりを迎えた曲です。
彼女にとって誰かと肩を並べて録音する経験はまだ少なく、最初は緊張したといいます。
それでも、実際に録ってみると、二人の曲への思いや歌・ラップの感覚が合うと感じました。
ソロ曲なら、一人の声で言葉の温度を決められます。
この曲では相手の歌があるからこそ、自分の一節が別の意味で響く。
春猿火は、二人で歌えば思いが大きくなり、別の受け取り方もできると話しています。
相手へ言葉を渡す関係が、歌い方の中心にあります。
その感覚は、本人がMVで気に入っている場面にも表れています。
春猿火が挙げたのは、二人が向かい合って歌うシーンでした。
それぞれの姿を映すだけでなく、メッセージを届けたい気持ちが表現されていると感じたそうです。
自分のパートを独立して聴かせるだけでは得られない、同じ問いに二人で向き合う親しさがあります。
バラードでは、息を含んだゆとりにも惹かれる
力強い声の持ち主でありながら、春猿火が歌い方の参考に挙げるのは、強い歌手だけではありません。
2025年の取材では、EGOISTのボーカルを務めたchellyやAimerを挙げ、空気を含んだゆとりのある歌い方に惹かれ、バラードで参考にしていると話しています。
一方でLiSAには、歌の力強さやライブでの姿に憧れを抱いていました。
この二つの好みを知ると、春猿火の声を「強いか弱いか」だけで捉えずに済みます。
ラップで言葉を詰める曲には、その速度を保つ緊張感がある。
柔らかな旋律を歌う場面には、声と声の間に余裕を感じさせる美しさがある。
本人が憧れる歌の幅も、その両方に開かれています。
「砂時計」と「META」――曲の世界に合わせて、出す力を決める
春猿火自身は、ロックが自分の声に最も合い、歌っていてしっくりくると語っています。
ただ、その言葉を「常に強く歌う」という意味にすると、彼女の曲の幅を取りこぼします。
2025年の『RULE THE WORLD』では、「META」が重いロックで聴き手を驚かせる核となり、一方の「砂時計」「room wear」は作品に黄昏の色を加える曲として位置づけられました。
ディレクターと本人が説明するように、アルバム内でも曲ごとに見せる景色は違います。
春猿火は、自分の曲には歌いやすいものがほとんどないと話しました。
だからこそ「春猿火らしい声」を一つに固定できません。
「オオゴト」では息を保ちながら歌とラップをつなぎ、「Lift Up」では遠慮を外し、「台風の眼」では自分の弱さから人に呼びかけ、「覚醒」では相手と声を分け合う。
曲が何を語るかによって、声を出す力も言葉の置き方も変わります。

画像出典:砂時計の公式告知
春猿火の歌い方の面白さは、ラップと歌のどちらか一方が「本当の声」ではないところです。
自分がラップをしてよいのかという迷いを現在も口にしながら、それでもフロウを歌唱の引き出しとして使う。
強さを演じるときも、誰かに寄り添うときも、曲に必要な距離を探し続けています。
その引き出しが時期を経てどう増えたかは、春猿火の歌唱変遷でたどれます。

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