ソウルの歌手らしくシャウトすることと、自分の感情を声にすることは、小坂忠にとって同じではありませんでした。
音楽ライターの金澤寿和は、どれほど叫んでも自分の叫びではないと小坂が気づき、もっと自分の心で歌いたいと話したことを記しています。
「しらけちまうぜ」のキーを上げる判断にも、ビブラートを受け入れる判断にも、歌へ自分の感情を乗せたいという思いがあります。
力強い声という印象を、本人が選んだ歌い方と、具体的な作品から確かめてみましょう。
「しらけちまうぜ」(2018年「HORO 2018 Special Live」収録音源)
「しらけちまうぜ」は、昔より高いキーで
「しらけちまうぜ」は、原曲では甘い感じで歌われていた曲です。
2018年のライブをめぐる取材では、歌がぐっとソウルフルになったという聞き手の感想に対し、小坂自身がキーの違いを説明しました。
原曲のFに対し、その頃はGくらいで歌う。
全音ほど上げたほうが、メロディーに力を入れられると感じていたのです。
単に高い音が出ることを見せる選択ではなく、その旋律にどのくらい力を込められるかを基準にしていました。
この話で注目したいのは、キーを歌の表情と結びつけているところです。
同じメロディーを低めの位置で歌うのか、少し高い位置へ移すのか。
小坂は、当時の自分が旋律に気持ちを込めやすい高さを選んでいました。
原曲を覚えている人なら、音の高さに加え、言葉がどんな勢いで飛び出してくるかも聴き比べたいところです。
昔の録音と同じ高さを守ることだけが、その曲を大切にする方法ではなかったのでしょう。
この具体的なキーの説明があることで、取材者が感じた甘さとソウルフルな印象の違いにも、耳を向けやすくなります。
ビブラートを禁じず、自由に歌う
ビブラートは、伸ばした声の高さを細かく揺らす歌い方です。
小坂は、若い頃にはビブラートをつけると歌謡曲らしくなると考え、なるべく声を揺らさずに歌っていたと話しました。
ゴスペルを歌う中でそのこだわりがほどけ、2001年の『People』の頃には、自由に歌えばよいと思うようになったと振り返っています。
自分が聴き、吸収してきた音楽が自然に声へ現れるなら、それを受け入れる。
若い頃に避けていた歌謡曲らしさまで排除せず、身についた表情を歌へ使う考えに変わったのです。
ここでの自由は、声をどれだけ派手に揺らすかを競うものではありません。
声を真っすぐ保つ表情も、揺れを伴って伸びる表情も、自分の歌として選べることです。
聴くときも、ビブラートの有無だけで区切らず、その揺れが言葉の終わりにどんな気持ちを残すかを考えると、小坂の選択に近づけます。
弾き語りとバンドで、言葉の置かれ方を聴く
力強い歌い手という印象を広げてくれるのが、カバー曲です。
『THE LAST SESSION〜with Chu’s Friends』には、2016年に録音したボブ・ディランの「Forever Young」が収められています。
公式ライナーノーツの佐野郷子は、弾き語りで訥々と歌う小坂の味わいを取り上げています。
この音源は、小坂が担当したラジオ番組のオープニング用に、自主的に録音したものです。
大きなバンドの音に囲まれる場面とは違う、言葉を差し出す歌として聴く入口になります。
強い声で圧倒する歌い手、という印象だけでは拾いきれない作品です。
同じ作品集にある「Many Rivers to Cross」は、2019年のライブ録音です。
佐野は、ジミー・クリフの詞を噛みしめるような歌唱と、オルガンや桑名晴子のコーラスが重なる演奏を評しています。
一人で言葉を届ける歌と、周囲の音や声に支えられて広がる歌。
この二曲を並べると、歌の力が生まれる場面の違いを考えられます。

画像出典:写真掲載元
誰かのシャウトから、自分の叫びへ
金澤が直接会って聞いた話では、小坂はレイ・チャールズやオーティス・レディングに憧れ、唱法をコピーしていたといいます。
しかし、そこで歌い方が似ても、自分の叫びにはならないと気づきました。
もっと自分の心で歌うことが必要だと考えたのです。
憧れた声に近づこうとする努力と、今ここで自分が何を歌いたいかは、必ずしも一致しません。
金澤が残した話は、シャウトの大きさや似ている度合いだけでは、小坂の求めた歌にならなかったことを伝えています。
誰かの声の形を借りても、そこへ乗せる気持ちは自分で見つける必要があったのです。
ギターを聴いて、歌の気持ちも動く
自分の心で歌うことは、周囲の演奏を気にせず歌うことでもありませんでした。
小坂は、ギターが気持ちよく鳴っていれば、自分も気持ちよくなり、目が合うだけで言葉のない会話ができると話しています。
自分一人だけが気持ちよい歌ではつまらない、という考えです。
ライブ盤とスタジオ盤について尋ねられた別の取材でも、小坂は会場や観客の雰囲気を理由に、両者を別のものとして捉えていました。
『HORO 2018 Special Live』を聴く際には、完成したスタジオ録音をどれほど正確になぞっているかだけでなく、その場で交わされる反応にも耳を向けたいところです。
歌が楽器にどう応じ、楽器が歌の後をどう受け取るのか。
本人の語る気持ちよさを、声と伴奏のやり取りとしてたどれます。
歌詞には、聴き手が想像する余地を残す
小坂は2018年の取材で、言葉を詰め込み、説明しすぎると、歌の世界が狭くなってしまうという考えも語っています。
歌い手が発する言葉と、受け手の想像力が重なることで、作品が出来上がると考えていました。
同じ発信を全員が同じように受け取らなくてもよい、という姿勢です。
この考えを踏まえると、言葉へ感情を込めることと、聴き手の受け取り方まで決めてしまうことは分けて考えられます。
歌い手は自分の心で歌い、聴き手には、その人自身の風景が浮かぶ。
小坂の歌に感じる温かさを、声の音色に加え、こうした相手への向き合い方から考えることもできます。
音楽を聴くときに、よく目を閉じていたという本人の話も印象的です。
映像がなくても、音から想像する世界を楽しんでいたといいます。
歌の意味を急いで一つに決めず、一つの声から自分にどんな情景が浮かぶかを待つ。
小坂が大切にした聴き方は、彼自身の歌を味わうときにも手がかりになります。
メロディーへ力を込めるためにキーを上げ、自然に出てくる声の揺れを受け入れ、バンドの反応を聴いて歌う。
小坂が求めた自分の叫びは、そうした選択を重ねた先にありました。
「機関車」の歌い直しや、長く歌った後の自分の声への思いは、小坂忠の歌唱変遷でたどっています。







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