「グッド・バイ・マイ・ラブ」を歌ったアン・ルイスと、「ラ・セゾン」を歌ったアン・ルイス。
甘く切ないバラードの歌手が、1982年には毅然とした表情でロックを歌うようになります。
ロックへ進む途中にも「リンダ」のようなバラードを歌い、後年にはその曲を声中心のアレンジで録り直しています。
声の甘さは、ロックで表す強さと並んで、その後の歌にも残りました。
何を歌うか、誰と作るか、同じ歌をどう育てるか。
アンの変化をたどると、歌の中で表す女性像とともに、制作の場で本人が選ぶものも増えていきます。
「ラ・セゾン」(1982年発表)―『WOMANISM I』(1991年)収録音源
甘いバラードだけの歌手になる不安
1974年の「グッド・バイ・マイ・ラブ」は、平尾昌晃の旋律となかにし礼の詞を、甘い声で切々と歌った初期の代表曲です。
しかし、もともとロックが好きだったアンは、与えられた曲を歌うだけでは満足できなくなっていました。
音楽ライターの馬飼野元宏は、本人がバラードばかりの歌手になることに不安を感じていた、と伝えています。
ヒット曲が生まれたことと、その後も同じ役割を望むことは、彼女の中では別だったのです。
「グッド・バイ・マイ・ラブ」(1974年発表)―『WOMANISM I』(1991年)収録音源

画像出典:写真掲載元
転機につながったのは、スタッフが見つけたユーミンのインタビューでした。
曲を書きたい歌手としてアンの名が挙がっていたことから依頼が実現し、1977年の「甘い予感」が生まれます。
制作に先立ってユーミンのレコーディングを見学したアンは、その作業を見て、音楽を作るということに目を開かれました。
以後は、歌に自分の意見を入れるようになります。
デビューから数年を経て、曲を受け取るだけだった場所に、本人の希望が入ってきたのでした。
「甘い予感」(1977年発表)|『WOMANISM I』(1991年)収録音源
自分から「女ジュリー」を選んだ
アンが次に求めたのは、可愛い歌手のイメージを離れ、沢田研二のように歌うことでした。
沢田の曲を多く手がけていた加瀬邦彦に依頼し、1978年の「女はそれを我慢できない」が生まれます。
歌謡ロックへの入口を、本人が選んで開いたのでした。
「女はそれを我慢できない」(1978年発表)|『WOMANISM I』(1991年)収録音源
この時期の面白さは、ロックへ進みながら、声の甘さが生きる曲も作っていることです。
1979年の「恋のブギ・ウギ・トレイン」は、山下達郎と16ビートのディスコを作ろうと意気投合して生まれた曲です。
1980年の「リンダ」は、友人の竹内まりやが、アンの結婚のお祝いも兼ねて贈った曲でした。
タイトルはアンのミドルネームです。
まりや自身が振り返る親しさが、曲の生まれ方にも表れています。
馬飼野は、こうした作家たちの提供曲に、アンの甘くきれいな声質を生かす一面を見ています。
「リンダ」(1980年発表)|『WOMANISM I』(1991年)収録音源
「女はそれを我慢できない」の後に「リンダ」がある。
この順番をたどると、初期の声の持ち味を消してロック歌手になったのではなく、同じ歌手が曲に応じた表情を広げていたことが分かります。
「ラ・セゾン」で変わった、歌の中の立ち姿
さまざまな音楽を選びながら、ロックで表したい世界をさらに具体化したのが、1982年の「ラ・セゾン」でした。
沢田の「ストリッパー」のサウンドを気に入ったアンは、伊藤銀次に、同じような過激な英国ロックの音で制作したいと直接頼みました。
作詞は三浦百恵、作曲は沢田研二。
憧れの歌手の曲を、自分の望むサウンドで歌う組み合わせが実現したのです。
音楽プロデューサーの松尾潔は、以前のアンに感じていた甘えるような歌い方と、「ラ・セゾン」の毅然とした歌唱との違いを振り返っています。
ここでは、作りたい音を自分から求めた出来事と、実際の歌に接した人が感じた変化が重なります。
誰の曲を、どんなサウンドで歌いたいかという希望が、甘えるだけではない女性の態度として伝わるようになったのでした。
「女ジュリー」を目指した選択が、「ラ・セゾン」で一つの鮮明な姿を結びます。
「六本木心中」は、華やかなロックを求めた先に
1984年の制作では、アンはさらに、沢田のロンドン録音を担当したエンジニア、アルド・ボッカを日本へ呼びたいと希望しました。
伊藤銀次によれば、「六本木心中」は、このときアルバムに入れるつもりで作った曲です。
彼がアンに思い描いていたのは、華やかで色彩豊かな、ポップなロッカーでした。
そこで、NOBODYのデモにあった男っぽい印象をそのまま押し出すのではなく、きらめくシンセサイザーと硬いギターの音を組み合わせます。
長いイントロを持つ曲に仕上がった後、シングルへと選ばれました。
伊藤は、アンが求めたロックを、歌の主人公が華やかに登場する音へと作り上げていったのでした。
松尾は「六本木心中」のアンを、男性に依存しない女性像の代弁者として捉えています。
甘い声で別れを告げた初期から、自分の思いを発する女性へ。
「ラ・セゾン」で見えた毅然とした表現は、ここでさらに、アンを代表する歌の世界になっていきました。
「六本木心中」(1984年発表)|『WOMANISM II』(1991年)収録版
2004年、変える曲と守る曲を選び直す
その後のアンは、過去のヒット曲にも自分から手を入れています。
2004年のセルフカバー盤『ミー・マイセルフ・アン・アイ “リフレッシュド”』では、原曲と大きく変えることを考えて制作したと、本人がセルフライナーに記しています。

写真の撮影年は不明。
画像出典:日本コロムビア
「リンダ」で望んだのは、ア・カペラへの作り替えでした。
1980年の原盤では山下達郎がコーラスを重ねていましたが、今回はアン自身がすべての声を担当したいと考えます。
実際には、共同制作者フランク・シムズの娘たちもコーラスに参加しました。
自分一人で、という当初の案とは異なる形になっても、声の重なりを中心に歌を組み直す選択は残ったのです。
「リンダ」|『me-mySELF-ann-i “refreshed”』(2004年)再録・日本コロムビア提供音源
一方、「六本木心中」は元のキーで歌っています。
アンにとって、その高さは曲の迫力に必要なものでした。
何もかも新しくするのではなく、残すべきものも本人が選んでいます。
しかも、同じキーだからといって、本人の中で昔と同じ歌だったわけではありません。
初録音は十分に練習しないうちに済ませていたこともあり、その後にテレビやステージで何度も歌うことで、旋律に慣れ、技術も育った。
アンはそう振り返り、この再録には原盤の頃より自信があると述べています。
ここでの変化は、曲の高さを動かしたことではなく、長く歌ってきた曲を自分のものにしたという実感でした。
「六本木心中」|『me-mySELF-ann-i “refreshed”』(2004年)再録・日本コロムビア提供音源
バラードばかりになることに不安を覚えたアンは、ロックの女性像を自ら選び、その後はヒット曲の歌い直し方も選ぶようになりました。
甘い声も毅然とした表現も、過去の決まった役割に閉じ込めず、もう一度自分の歌へ作り直していく。
「ラ・セゾン」へ向かった意志は、後年の再録にもつながって見えます。
曲ごとにどんな声の表情を使うかは、アン・ルイスの歌い方で取り上げています。







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