エルヴィス・プレスリーの歌声の変遷|ロックの弾みから、バラードの深い表情へ

1968年のテレビ特番で歌うエルヴィス・プレスリー エルヴィス・プレスリー
1968年のテレビ特番で歌うエルヴィス・プレスリー

若いころのロックンロールと、白い衣装で大きなバラードを歌う姿。
エルヴィス・プレスリーには、ずいぶん違う二つの印象があります。
その間に、歌声には何が起こったのでしょうか。

初期から一緒に演奏したスコティ・ムーアは、出会ったころのエルヴィスが、いろいろな種類の歌を歌っていたと振り返っています。
最初から一つの型が完成していたわけではありません。
幅広い好みを持つ青年が、曲と仲間に出会いながら、自分の声の使い道を増やしていった歩みです。

1954年、決めていた歌い方を離れたところから始まる

サン・レコードでの録音は、初めから順調だったわけではありません。
バラードなどを試しても方向が定まらず、休憩中にエルヴィスがギターを手にして歌い出したのが「That’s All Right」でした。
ベースのビル・ブラックとギターのスコティが加わり、プロデューサーのサム・フィリップスが反応します。

ブルースの曲を受け継ぎながら、三人の演奏には若々しい弾みがありました。
続く「Blue Moon of Kentucky」では、カントリーのワルツを四拍子へ変えています。
どちらかのジャンルに声をきれいに収めるより、歌とリズムを一緒に動かすことで、新しい輪郭が生まれました。

初期の歌を考えるとき、荒々しさだけに目を向けると、その先の発展を見落とします。
勢いを放つ声に加え、細かなニュアンスを扱う歌も育っていました。
スコティのギターは声に応え、ビルの舞台での振る舞いは、観客とどう向き合うかの手掛かりにもなります。
声の個性は、一人きりで完成したものではなかったのです。

兵役時代のエルヴィス・プレスリー
兵役時代のエルヴィス・プレスリー。
画像出典:画像掲載元

1960年、復帰した声がバラードの広さを見せる

兵役を終える直前、エルヴィスは芸能界から離れている間、新しいレコードを出せていないことへの不安を話しています。
一方で、もうロックンロールを歌うには年を取りすぎたのでは、と問われると、それを否定しました。
復帰は、若いころを捨てる宣言ではありませんでした。

ドイツにいた時期には、歌える曲を広げようとし、チャーリー・ホッジと呼吸や声の練習を重ねています。
「It’s Now or Never」につながったのも、そのころ親しんだ歌でした。
『オー・ソレ・ミオ』と、その旋律を使う「There’s No Tomorrow」が、新しいレパートリーへの入口になったのです。

1960年の『Elvis Is Back!』と同時期のシングルには、復帰後の広がりが表れています。
録音の整理を長年担ってきたエルンスト・ヨルゲンセンは、このころの声に深みが加わり、歌の解釈も洗練されたと捉えています。
若い勢いを残しながら、曲をじっくり聴かせる歌手としての輪郭が濃くなりました。

同じアルバムでブルース、R&B、ポップスなどを行き来できたことも大切です。
表現の幅が広がるとは、すべてを同じ立派な声で歌うことではありません。
曲が変われば、声の勢いも、収め方も変えられる。
その豊かさが、復帰後の作品を支えています。

映画の時代にも、一つにまとめられない歌があった

1960年代の映画出演が続く時期を、歌が停滞した時代とだけ捉えるのは粗すぎます。
ヨルゲンセンは、軽い映画の歌と「Big Boss Man」のような曲が近い時期に発表されたことに、若いころから疑問を持っていました。
同じ歌手の同じ時期にも、取り組む曲の性格には大きな違いがあったのです。

また、1968年初めの録音に難しさがあっても、「Too Much Monkey Business」の別テイクには、歌を楽しむ様子が残ると説明しています。
活動の印象と、一曲の中で声が生きる瞬間は一致しません。
次の復活劇を理解するにも、すべての曲から意欲が消えていた、と考えないことが大切です。

1968年のテレビ特番でスティーヴ・ビンダーと写るエルヴィス・プレスリー
1968年のテレビ特番でスティーヴ・ビンダーと写るエルヴィス・プレスリー。
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1968年、仲間との歌を取り戻し、新しい言葉へ向かう

テレビ特番でエルヴィスが望んだのは、初期の仲間であるスコティ・ムーアとD.J.フォンタナを迎えることでした。
監督のスティーヴ・ビンダーは、その顔触れがいたから、本人がテレビの収録を忘れるほど楽しめたと振り返っています。
旧曲を歌い直す時間が、過去の成功を並べる以上の意味を持ちました。

番組の最後には、新曲「If I Can Dream」が置かれます。
ビンダーたちは、人種や宗教をめぐる寛容への思いを、エルヴィスが歌える言葉にしようとしました。
本人は曲を気に入り、歌うことを選びます。
親しい仲間と歌う喜びを取り戻す場面から、その時代へ語り掛ける歌へ進んだのです。

1954年には、何を歌えば自分になるのかを探していました。
1968年には、よく知る歌を取り戻しながら、今の自分が引き受けたい新曲も選んでいます。
この二つが同じ番組にあることで、復帰は懐かしさだけで終わりませんでした。

1969年、メンフィスの演奏者と歌を作り直す

翌年は、ナッシュヴィルやハリウッドでの仕事から離れ、地元メンフィスのアメリカン・サウンドへ向かいます。
きっかけを作ったのは、チップス・モーマンの仕事を知る友人のマーティ・ラッカーでした。
そこで待っていたのは、数多くの歌手を支えてきたスタジオの演奏者たちです。

1969年1月と2月の録音では、ソウルやブルースの色を持つ歌に取り組みました。
サン時代以来のメンフィスで、今度は別の仲間と向き合います。
若い日の音をそのまま再現する帰郷ではなく、当時のヒットを生む演奏の中で、声を働かせる機会になりました。

ラッカーは、チップスのもとでは演奏者が曲に合うフレーズを作り、エルヴィスもプロデューサーの指示を受けていたと話しています。
録音初日の帰りには、本人が手応えを伝え、もう一度できるか試したいと話したそうです。
慣れた環境を離れたことで、周囲から受け取る刺激も変わっていました。

「Suspicious Minds」を持ち込んだのはチップスでした。
出版権をめぐって録音が危うくなった際にも、エルヴィスは曲を採る側に立っています。
歌いたい曲を選ぶことと、歌手としての表現を更新することが、ここでは結び付いていました。

1970年代、舞台のスケールと柔らかな歌を併せ持つ

1970年の『That’s the Way It Is』は、ラスヴェガスでの公演を記録した映画と結び付くアルバムです。
ただし、収録曲の多くはナッシュヴィルで録音されており、全曲が映画と同じ実演というわけではありません。
舞台での見せ方と、スタジオで作る歌の両方が、この時期の姿を伝えています。

「Bridge Over Troubled Water」では、原曲の静かな安心感を、大きな呼び掛けへ展開するような歌唱があります。
一方、「I Just Can’t Help Believin’」には、くつろいだ表現もあります。
大きな舞台に立つようになっても、すべての曲が大声になるわけではありません。
力強さと親密さを、同じ時期のレパートリーに置いていたのです。

ゴスペルも、この時期の重要な柱でした。
1974年3月20日のメンフィス公演で録音された「How Great Thou Art」は、翌年のグラミー賞を受賞しています。
長く親しんだ宗教音楽が、後年の舞台でも評価の中心にありました。
ロック歌手から別の歌手へ生まれ変わったというより、もともと持っていた音楽の幅を、大きな公演へ持ち込んだ姿と捉えられます。

1976年、強く放つ声と、静かに残る歌

晩年の1976年には、自宅グレイスランドの部屋を録音場所に使っています。
後に「ジャングル・ルーム・セッション」として知られる録音です。
華やかな舞台とは違う場所にも、最後の時期の歌が残りました。

この時期の録音には、好調な瞬間だけを並べられない難しさもあります。
「I’ll Never Fall in Love Again」の音程の不安定さや、表現の過剰さを指摘する評価がある一方、「Hurt」の冒頭の強い声、「Danny Boy」の悲しみを帯びた歌は、高く評価されています。
同じ録音群の中にも、声の届き方には差がありました。

初期の弾む声から、1960年の幅広い歌唱、1968年の再出発を経て、後期の大きなバラードへ。
そこにあるのは、声量が増え続けるだけの成長ではありません。
曲を選び、仲間と歌を作り、強く呼び掛ける声と静かに伝える声を使ってきた歩みです。

若いころと晩年のどちらか一方だけで、エルヴィスを代表させる必要はないでしょう。
一曲ごとに異なる表現を選べる人だったことが、時代をまたいだ歌の広がりを支えています。
具体的な声の使い分けは、エルヴィス・プレスリーの歌い方で掘り下げています。

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