1968年、友人に「そんな歌い方を続けたら声がもたない」と心配されたジャニス・ジョプリンは、将来のために今の舞台を抑えて歌うつもりはない、と答えました。Big Brother and the Holding Companyの大きな音の中で、出し惜しみせず歌うことを選んでいたのです。
ところが1970年のアルバム『Pearl』の録音では、プロデューサーが彼女に、かつて聖歌隊で歌ったときのような声も使ってほしいと話しました。強い声を捨てたのでしょうか。1964年の小さな編成から二つのバンドを経て、最後のスタジオ録音に残したものをたどると、変化は単なる「激しさから優しさへ」では収まりません。
1964年の録音には、ギターと歌だけがあった
ジャニスの出発点を知る手がかりの一つが、ギタリストのヨーマ・カウコネンと1964年6月に残したリハーサル録音です。正式に世に出たのはずっと後ですが、録音時期が明らかな『The Legendary Typewriter Tape』には、「Trouble in Mind」などのブルースが収められています。大人数のバンドも、歓声に応える舞台もなく、基本はギターと歌の組み合わせでした。
その録音が示すのは、のちに有名になる叫び声より前から、彼女が古いブルースを自分の歌として扱っていたことです。ただ、伴奏が少ないという事実だけで「当時は声が弱かった」とは言えません。次に起きるのは、もともとあった歌を、まったく違う音量の場へ持ち込む変化です。
1966~68年、Big Brotherの大音量に応じて歌い方を変えた
1966年、ジャニスはサンフランシスコのBig Brother and the Holding Companyに参加します。本人は後の取材で、それ以前は立ったまま素朴に歌っていたのに、ロック・バンドのリズムと音量を背にすると同じやり方では歌えず、声も体の動きも大きくなったと振り返りました。激しい歌唱は、初めから完成していた持ち味を見せただけではなく、共演する音に応じて身につけたものでした。
1968年の『Cheap Thrills』に収めた「Piece of My Heart」では、Big Brotherという集団の音とジャニスの歌が一体になっています。曲の前にあるのは1967年のアーマ・フランクリンによる録音ですが、ジャニスたちはこの歌を自分たちのロックの演奏へ引き寄せました。彼女が大きな声を選んだ背景には、単に目立つためではなく、こうしたバンドと一緒に歌う現場がありました。
この時期の彼女は、舞台で客席と感情を交わすことを重視していました。1968年の本人取材に残る「今、抑えて平凡に歌う」ことへの反発も、その場で出し切るという考え方をよく表しています。けれども、同じ年に成功した歌を、同じ大音量のバンドで繰り返す道だけを選んだわけではありません。
1967年のモントレー公演「Ball and Chain」も強い声だけで進む曲ではありません。あの一曲の中で静けさと激しさをどう行き来したかは、「Ball and Chain」の歌い方の記事で詳しく扱っています。ここで追うのは、その後にバンドと録音環境が変わり、歌う選択肢がどう広がったかです。
1969年、ホーンのあるバンドで「抑える」ことを試した
Big Brotherを離れたジャニスは、ホーン奏者を含むKozmic Blues Bandへ進みました。新しい編成の目的を、ギターをホーンに替えただけの話にすると、歌そのものの変化が見えません。1969年初めに二つのバンドの公演を見た批評家エレン・ウィリスは、新しい舞台でジャニスがより落ち着いた、繊細な歌い方を意識して探していると記しています。以前から歌っていた「Piece of My Heart」や「Ball and Chain」にも、抑えた調子と新しい抑揚が加わっていたという観察です。
ただし、その試みが初めからうまくまとまったわけではありません。ウィリスは演奏を失敗とは見なさなかった一方、ホーンが前に出すぎてジャニスの声を覆う場面もあったと評しました。より細かな歌を求めて編成を変えても、その伴奏と声の場所を作るには時間が要った。変化の途中にあった難しさが、当時の評からも分かります。
同年の『I Got Dem Ol’ Kozmic Blues Again Mama!』には、ソウルへ寄った「Try (Just a Little Bit Harder)」と、ジャニス自身も制作に関わった「Kozmic Blues」が並びます。ウッドストックのステージでも、彼女は「Try」のあとに「Kozmic Blues」を歌いました。激しい歌をやめたのではなく、ソウルに近いバンドで、曲ごとに違う感情を置く場所を探していました。
「Kozmic Blues」は、彼女にとって自分の言葉を託した曲でもありました。新しいバンドの音の中で、声量だけで一曲を運ぶのではない方向が見えてきます。その方向が最後のスタジオ録音で形になる前に、ジャニスはもう一度、共に演奏する人たちを選び直します。

1970年、Full Tilt Boogie Bandでは自分で歌の場を作った
1970年のFull Tilt Boogie Bandについて、当時のツアー・マネージャー、ジョン・バーン・クックは、ジャニスがメンバー選びや曲選びに積極的に関わったと振り返っています。Kozmic Blues Bandは周囲の助言で組まれ、メンバーの入れ替わりも多かった。それに対して、今度はジャニス自身がリーダーとしてバンドを形作ろうとしました。
『Pearl』の冒頭を飾る「Move Over」はジャニスの自作曲です。新しいバンドで彼女が求めたのは、強い歌唱を封じることではありません。自分で選んだ演奏者、自分で書いた歌の中でも、あの力は必要なものとして残っています。だから『Pearl』の変化を「叫ぶのをやめた」と説明すると、この曲が抜け落ちます。
一方、舞台とレコードでは、同じ力を同じ距離で届ける必要はありません。『Pearl』を制作したポール・ロスチャイルドと仕事をしたジャニスが、ライブとスタジオで声を使い分ける話に強い関心を示したことを、クックは本人との会話として伝えています。大きな客席へ声を投げるときに役立ったやり方だけが、マイクの前での答えではなかったのです。
『Pearl』では小さな声も、大きな声へ至る道になった
ロスチャイルドは後に、ジャニスに聖歌隊にいたころのように歌うことを提案したと語りました。例に挙げたのが「Me and Bobby McGee」です。冒頭は柔らかく、曲の終盤では力強さが前へ出る。1970年のこのスタジオ録音には、彼女が大きな声を失ったのではなく、そこへ向かう道を増やしたことが表れています。
『Pearl』には、さらに伴奏なしの「Mercedes Benz」も残りました。バンドの轟音に応じて声を大きくした歌手が、最後の録音では声だけの歌も盤に収めた。この一曲を「おとなしくなった証拠」と見るより、伴奏を外した歌も選択肢に残したと受け取るほうが、同じアルバムの「Move Over」と矛盾しません。
『Pearl』はジャニスが亡くなった後の1971年に発売されました。盤の発売年をもって、1971年に歌い方が変わったという意味ではありません。ここでたどったのは、1964年のリハーサル、1968年のBig Brother、1969年の新しいバンド、そして1970年の録音で選んだ歌です。
ロック・バンドの音に応じて得た強さは、最後まで彼女のものでした。その強さをいつ出すか、いつ声を近づけるか、どの曲では伴奏をなくすか。ジャニス・ジョプリンの歌声の変遷は、ひとつの声が別の声に置き換わった記録ではなく、歌を届ける方法を増やしていた途中の記録です。

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